2019年7月23日火曜日

アジサイに宇宙を見た

 自然の造化の美は、人が作り出す美や栄華などよりずっと勝っている。

「ソロモンの栄華でさえ、野に咲く百合の花一輪にかなわない」

とは
旧約聖書の言葉だったと思うが、花々の美しさはその細部にわたって美しい宇宙が広がっていることである。

人が作り出した美は、それなりに美しいが、細部に細部にと分け入っていくとき、その美しさを失わずにいることはできない。

どのような芸術家であれ、熟達した職人であれ、とことん細部にまでこだわってもそれは有限であり、永久的に突き詰めて美を微小の中に求めることはできない。どこかで打ち止められるところがある。

しかし、
自然の造化の美の花はそうではない。細部に細部にと美は宿る。

雨になって薄暗い日中、咲きだしたアジサイの花はハッとするような美しさを見せ始めている。

私が好きなのはガクアジサイである。ブーケのような幻想的な花びらが周りにあり、真ん中には色相は似通ってはいるが一つ一つ微妙に違う小さな小さな金平糖のような花が真ん中に密集して咲いている。


真ん中のもやもやした色調のところは小さな花がたくさん集まったところだ。
見ながら、どこかでよく似たものを見たぞ、と思う。

「あれは、どこだっけかなぁ」


 そうだあれは『宇宙背景放射のゆらぎ図』だ。

見比べてみよう。わかりやすくするため、アジサイの花の真ん中を楕円に切り取った。

まず
『宇宙背景放射のゆらぎ図』


そして下がアジサイ中心部の小さな花々
 色調は厳密には同じではないが、アジサイは千変万化、実に様々な変わった色を見せる。探せば、宇宙背景放射のゆらぎとほとんど同じものを見つけるのは難しいことではない。

 アジサイに宇宙を見た。

2019年6月1日土曜日

広島旅行11月1日(一泊)

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 錦帯橋の橋のたもとにある槍倒しの松




 宮島にあった厳島合戦あと






 厳島神社の上のほうにある見晴らしのよいお堂



 厳島神社の奉納能楽堂


照葉樹林帯とブナ林帯

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 この日本列島は植生によっておおむね二分される。照葉樹林帯とブナ林帯である。照葉樹林帯は西日本の平地および低地に広がり、ブナ林帯は東日本の平地~低地山岳帯(西日本の高地にもあるが)まで広がる。今はどちらの森林もほとんど開墾され農地になったら、あるいは杉檜などの人間に有用な樹木が植えられたため、西日本にも東日本にもこの二つの樹林帯はほとんど残っていません。

 そのわずかに残っている西日本の天然林(照葉樹林)が徳島市内の中心部、城山にまるで海に浮かぶ孤島のように残っています。今日はその中を散策しました。

 照葉樹林帯の代表的な木々は、シイ、クスノキ、タブ、ヤブツバキ、ホルトノキ、などです。どれも冬になっても落葉しない「常緑の広葉樹」です。照葉樹という字が示すように、葉っぱは表面がつるつるして光沢があるように見えます、葉っぱも広葉樹ですが、小ぶりで厚くなっているのが多いようです。


 古代日本にはこの二つの照葉樹林帯とブナ林帯が西日本、東日本とそれぞれに区別して広がっていました。どちらも原生林でした。また狩猟採集段階にあった縄文人はどちらにも住んでいましたが、圧倒的に人口が多かったのはブナ林帯でした。だから照葉樹林帯の西日本は今と違って人口が極端に少なく、東日本の方が縄文文化の中心でした。




イメージ 1 また秋になるとブナ林帯の河川には今ではちょっと信じられないくらいの多量の鮭が遡上してきます。大げさな話ではなく、遡上する鮭の背びれで川向うまで埋め尽くされ、川の色が変わったといわれています。縄文人が獲りつくせないほどの量です。多量にとれたため捨てるわけにもいかず、干したり燻製にしたりして何とか長持ちさせようとしました。春まで保存できれば冬の食料となりますからね、また落葉や倒木の多いブナ林帯は腐葉土も多く、キノコもたくさんできました。


 ブナ林帯の縄文人の食事は

 クルミ、クリなど木の実のパン、シカ肉やイノシシ肉のロースト、鮭のルイベや干し肉、鮭やキノコのたっぷり入った石狩鍋・・・・・・

 けっこう豪華ですね。

  それに対してワイら住む西日本の照葉樹林帯は森の恵みに関してはブナ林帯と比べるべくもなく貧弱でした。秋が来ても葉っぱは落ちず暗く鬱蒼と生い茂る森の木の実は少なく、結果、森の恵みも少ないのです。だから古代、人口が少ないのも頷けますね。(ただ西日本でも高地はブナ林帯ですから森の恵みは大きいです)


 ところがその土地から生み出される富が大逆転することが縄文末に起ります。最初は湿地に、そしてのちには照葉樹林を切り倒し水田をつくり、水稲栽培を始めたのです。こうなると米のできにくい気候のブナ林帯は不利でした。米作りは照葉樹林帯の気候に最も適していたのです。

 米作りによりたくさんの余剰ができ、それに伴い多くの人口が養えるようになり、さらに森は開墾され水田は増えていきます。やがて国という組織が生まれ、組織化した西日本は、人工、財力、そして武力でも東を圧倒するようになるのです。ずっと負けていた照葉樹林帯がブナ林帯に勝ったのです。その時に弥生時代がはじまります。

 下は城山に残る『照葉樹林帯』散策した動画です。

2019年5月25日土曜日

鳴門舟

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今日、海を見に鳴門の岡崎海岸へ行った。風もない暖かい日で光あふれる穏やかな春の海が見られた。

行ったときは海岸の沖に一隻の機帆船型の小さな漁船がみられたが動画を撮るときはいなくなっていた。

 そんな船を見ながら中世の歌謡集『閑吟集』のこんな一節を口ずさむ

 身は鳴門船かや 逢はで焦がるる』

  恋に悩む自分はまるで鳴門舟なのか?、逢わないで(逢わ-阿波、をかける)、心は思い焦がるる焦がれる-漕がれる、とかける) 鳴門の船だから~阿波で漕がるる~というわけだ。

 鳴門、阿波、漕ぐ、をかけ言葉にした恋の歌である。中世人の切ない恋の行方はどうなったんだろうなぁ。


ほとんど雪国

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 このところ週末や日曜になると雪が降るみたいで、今日も雪景色が見られる一日となった。

 同じ場所でも普段見慣れた景色と違うように感じる。

 「まるで雪国へ旅行しているみたいだ。」 タダで北陸や東北へ旅行できる気分になれるとは結構なことだ。 「これで、雪景色を見ながら、露天温泉につかることができれば申し分ないんだがな」


江戸は夢か その9・江戸のはやり病

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 文化13年の師走、裏長屋にいる還暦を過ぎたやま爺さん、10日ほど前から、激しい咳き込みが続き、臥せっております。薬湯が効いたのか咳は少しずつ治まってきていますが、あっちこっちの体のたがが緩み、抑えていた体のほかの病気も出そうな雰囲気で完全回復には程遠いようです。
 
 そういうわけで毎日、左のような九尺二間の狭いところで寝たりおきたりですごしております。病気の初めのころは養生のため横になっておりましたが、少し良くなってくるとさすがに退屈しております。かといって師走の江戸は大変寒く(今の季節では一月下旬ころ)、外へ出るのもつらく、また咳病なので外気で悪化するのを恐れて長屋に閉じこもっています。退屈しのぎにと、黄表紙(この時代の軽い読み物パロディ、絵入りで今日の漫画に近い)なんかを読んだりしています。
 
 今日はその退屈しのぎのひとつにもなろうかと、近年の江戸(天明~文化年間)のはやり病についてお話しようと思っております。
 
 この時代、細菌だのウィルスが感染して人に伝染病をもたらすなどという事はもちろんわかってはいません。しかし、人から人へ『うつる』という病気があることは江戸時代の人でも承知しています。最初は町で一人二人とポチポチ発病していた病気が、どんどん広がり、町中の多くの人が同一症状で臥せっていることになれば、これは『はやり病』だと認識するのも当然でしょう。ところでこの『うつる』ということと、『はやり病』は分けて考えなければなりません。『はやり病』⇒『うつる』ではありますが、『うつる』病は必ずしも『はやり病』とはなりません。例えば性病なんかはこの時代でも接触感染によって『うつる』ことは知られていましたが、性病ははやり病とは言いませんでした。
 
  その流行病ですが江戸時代、人から人へ伝染し、大流行をもたらした病気の諸症状を、今日の医学的知見に当てはめて多分そうであろうと思われる病気は、まず死亡率の高かった順にいうと
 〇コレラ
 〇天然痘
 〇赤痢
 〇麻疹(はしか)
 〇流行性感冒(インフルエンザ)
 
 があげられます。世界史的にパンデミック(大流行そして大量死)の横綱格は『ペスト』ですが、幸いなことに江戸時代の日本にはペストは流行していません。ペストは主に中央アジアあたりを源としてネズミの蚤を媒体として伝染するものです。江戸時代の日本は鎖国していて世界への窓口は長崎のみ、そしてペストは空気伝染しないのです。長崎出島や唐人屋敷を設けての制限貿易は、外国船からのネズミ(についた蚤)の侵入の防疫にもなったのでしょう。
 
 ペストを除外すると、次に死亡率、伝染率の高いのはコレラです。これは江戸時代に侵入して流行をもたらします。これらは経口感染なので患者の便から汚染された不衛生な水、飲食物を通じて流行しました。
 しかし、コレラが江戸に現れ猛威を振るうのは幕末になってからで、やま爺さんの生きていた文化年間はまだコレラは知られておらず、被害もありませんでした。
 
 そうなると文化年間の流行病でもっとも死亡率が高い、すなわち恐れられたのは「天然痘」でした。当時の人は痘瘡または疱瘡と呼んでいました。空気伝染し、感染力も強いため、濃厚に接触した免疫のない人(つまり天然痘に罹ったことのない人)はほぼ100%発症したといわれます。高熱、そして全身に発疹、それが豆様になり、膿を持ち、かさぶたになって、治ったとしても皮膚に醜い瘢痕を残します。
 
 文献によれば天然痘は早くも奈良時代に大流行が見られます。その後、数十年ごとに大流行を繰り返しますが、江戸時代の文化年間(1800年代始め)ごろになると、毎年のように小流行を繰り返すようになります。そうすると不思議なもので大昔の数十年周期の大流行の時より死亡率が下がるのです。
 
 そんなわけで我が長屋の住人にも過去に罹った人もいますし、また貧乏人の子だくさんで長屋でもたくさんの赤ちゃんが生まれますが、今年になって生まれた子の何割かはこの痘瘡に罹り、半数くらいの子は死にました。幼児、高齢者、妊婦がこの病にかかると半数以上は死にました。
 
 一旦かかると有効な治療法はなく(今でもウィルスに直接効く薬はない)、発熱期が過ぎた後、発疹が出て、その後いくつかの段階を経て無事にかさぶたになるまで経過を見守る以外ありませんでした。その過程で高熱が下がらず、体の各部位から出血をするようになると助かりませんでした。私の長屋のとなりの家には、ようやく歩き始めたおなごの子でサト、というかわいい子がいました。長屋の路地で赤い花が咲いていると、よちよち歩いてきてその花をむしり取るのを喜んでいるような無邪気な子でしたが、痘瘡に罹り、発疹がようやく出かかったころに容体が急変しなくなってしまいました。親の嘆きはいかばかりだったでしょう。
 
 江戸から遠く離れた阿波の国の記録にもこのような文書が残っています。
 
 文化の森の文書館の資料に次の古文書の一文を見つけました。これは名西郡高原村の元木家の1808~1860年、江戸後期、の日記の中に書かれてある幼児の天然痘による死亡に関する文です。
 
『疱瘡追々流行仕、国中都ておもく村ニより七歩死半より三・四歩、当郷忠吉娘磯吉娘十二相果申候』
 
 天然痘が大流行し、村によっては子供の70~30%も死亡したことが記録され、身近な近所の娘であろう、2名が死んだことも書かれている。
 
 この時代、疱瘡を予防するといわれるまじないに類するものがあり、どこの家でもこのようなものがありました。疱瘡は除けには赤い色が良いという迷信からでしょうか。疱瘡よけのグッズには赤が用いられていました。
 疱瘡に罹り、幸いなことに回復しても、発疹~膿庖~かさぶた~あばたの過程が深刻な子は終世顔に醜い疱瘡の跡が刻印されました。
 
 このような恐ろしい疱瘡でしたが、江戸もこの頃になると、もしかしたら、この病気にかからない、あるいは軽くて治るかもしれない、というような情報がもたらされてきます。
 そろりそろりとではありますが江戸時代も医学の発展発達はあったのです。そのことについては・・・・・
 次回につづく