2019年5月25日土曜日

鳴門舟

20140224



今日、海を見に鳴門の岡崎海岸へ行った。風もない暖かい日で光あふれる穏やかな春の海が見られた。

行ったときは海岸の沖に一隻の機帆船型の小さな漁船がみられたが動画を撮るときはいなくなっていた。

 そんな船を見ながら中世の歌謡集『閑吟集』のこんな一節を口ずさむ

 身は鳴門船かや 逢はで焦がるる』

  恋に悩む自分はまるで鳴門舟なのか?、逢わないで(逢わ-阿波、をかける)、心は思い焦がるる焦がれる-漕がれる、とかける) 鳴門の船だから~阿波で漕がるる~というわけだ。

 鳴門、阿波、漕ぐ、をかけ言葉にした恋の歌である。中世人の切ない恋の行方はどうなったんだろうなぁ。


ほとんど雪国

20140214


 このところ週末や日曜になると雪が降るみたいで、今日も雪景色が見られる一日となった。

 同じ場所でも普段見慣れた景色と違うように感じる。

 「まるで雪国へ旅行しているみたいだ。」 タダで北陸や東北へ旅行できる気分になれるとは結構なことだ。 「これで、雪景色を見ながら、露天温泉につかることができれば申し分ないんだがな」


江戸は夢か その9・江戸のはやり病

20140120

 文化13年の師走、裏長屋にいる還暦を過ぎたやま爺さん、10日ほど前から、激しい咳き込みが続き、臥せっております。薬湯が効いたのか咳は少しずつ治まってきていますが、あっちこっちの体のたがが緩み、抑えていた体のほかの病気も出そうな雰囲気で完全回復には程遠いようです。
 
 そういうわけで毎日、左のような九尺二間の狭いところで寝たりおきたりですごしております。病気の初めのころは養生のため横になっておりましたが、少し良くなってくるとさすがに退屈しております。かといって師走の江戸は大変寒く(今の季節では一月下旬ころ)、外へ出るのもつらく、また咳病なので外気で悪化するのを恐れて長屋に閉じこもっています。退屈しのぎにと、黄表紙(この時代の軽い読み物パロディ、絵入りで今日の漫画に近い)なんかを読んだりしています。
 
 今日はその退屈しのぎのひとつにもなろうかと、近年の江戸(天明~文化年間)のはやり病についてお話しようと思っております。
 
 この時代、細菌だのウィルスが感染して人に伝染病をもたらすなどという事はもちろんわかってはいません。しかし、人から人へ『うつる』という病気があることは江戸時代の人でも承知しています。最初は町で一人二人とポチポチ発病していた病気が、どんどん広がり、町中の多くの人が同一症状で臥せっていることになれば、これは『はやり病』だと認識するのも当然でしょう。ところでこの『うつる』ということと、『はやり病』は分けて考えなければなりません。『はやり病』⇒『うつる』ではありますが、『うつる』病は必ずしも『はやり病』とはなりません。例えば性病なんかはこの時代でも接触感染によって『うつる』ことは知られていましたが、性病ははやり病とは言いませんでした。
 
  その流行病ですが江戸時代、人から人へ伝染し、大流行をもたらした病気の諸症状を、今日の医学的知見に当てはめて多分そうであろうと思われる病気は、まず死亡率の高かった順にいうと
 〇コレラ
 〇天然痘
 〇赤痢
 〇麻疹(はしか)
 〇流行性感冒(インフルエンザ)
 
 があげられます。世界史的にパンデミック(大流行そして大量死)の横綱格は『ペスト』ですが、幸いなことに江戸時代の日本にはペストは流行していません。ペストは主に中央アジアあたりを源としてネズミの蚤を媒体として伝染するものです。江戸時代の日本は鎖国していて世界への窓口は長崎のみ、そしてペストは空気伝染しないのです。長崎出島や唐人屋敷を設けての制限貿易は、外国船からのネズミ(についた蚤)の侵入の防疫にもなったのでしょう。
 
 ペストを除外すると、次に死亡率、伝染率の高いのはコレラです。これは江戸時代に侵入して流行をもたらします。これらは経口感染なので患者の便から汚染された不衛生な水、飲食物を通じて流行しました。
 しかし、コレラが江戸に現れ猛威を振るうのは幕末になってからで、やま爺さんの生きていた文化年間はまだコレラは知られておらず、被害もありませんでした。
 
 そうなると文化年間の流行病でもっとも死亡率が高い、すなわち恐れられたのは「天然痘」でした。当時の人は痘瘡または疱瘡と呼んでいました。空気伝染し、感染力も強いため、濃厚に接触した免疫のない人(つまり天然痘に罹ったことのない人)はほぼ100%発症したといわれます。高熱、そして全身に発疹、それが豆様になり、膿を持ち、かさぶたになって、治ったとしても皮膚に醜い瘢痕を残します。
 
 文献によれば天然痘は早くも奈良時代に大流行が見られます。その後、数十年ごとに大流行を繰り返しますが、江戸時代の文化年間(1800年代始め)ごろになると、毎年のように小流行を繰り返すようになります。そうすると不思議なもので大昔の数十年周期の大流行の時より死亡率が下がるのです。
 
 そんなわけで我が長屋の住人にも過去に罹った人もいますし、また貧乏人の子だくさんで長屋でもたくさんの赤ちゃんが生まれますが、今年になって生まれた子の何割かはこの痘瘡に罹り、半数くらいの子は死にました。幼児、高齢者、妊婦がこの病にかかると半数以上は死にました。
 
 一旦かかると有効な治療法はなく(今でもウィルスに直接効く薬はない)、発熱期が過ぎた後、発疹が出て、その後いくつかの段階を経て無事にかさぶたになるまで経過を見守る以外ありませんでした。その過程で高熱が下がらず、体の各部位から出血をするようになると助かりませんでした。私の長屋のとなりの家には、ようやく歩き始めたおなごの子でサト、というかわいい子がいました。長屋の路地で赤い花が咲いていると、よちよち歩いてきてその花をむしり取るのを喜んでいるような無邪気な子でしたが、痘瘡に罹り、発疹がようやく出かかったころに容体が急変しなくなってしまいました。親の嘆きはいかばかりだったでしょう。
 
 江戸から遠く離れた阿波の国の記録にもこのような文書が残っています。
 
 文化の森の文書館の資料に次の古文書の一文を見つけました。これは名西郡高原村の元木家の1808~1860年、江戸後期、の日記の中に書かれてある幼児の天然痘による死亡に関する文です。
 
『疱瘡追々流行仕、国中都ておもく村ニより七歩死半より三・四歩、当郷忠吉娘磯吉娘十二相果申候』
 
 天然痘が大流行し、村によっては子供の70~30%も死亡したことが記録され、身近な近所の娘であろう、2名が死んだことも書かれている。
 
 この時代、疱瘡を予防するといわれるまじないに類するものがあり、どこの家でもこのようなものがありました。疱瘡は除けには赤い色が良いという迷信からでしょうか。疱瘡よけのグッズには赤が用いられていました。
 疱瘡に罹り、幸いなことに回復しても、発疹~膿庖~かさぶた~あばたの過程が深刻な子は終世顔に醜い疱瘡の跡が刻印されました。
 
 このような恐ろしい疱瘡でしたが、江戸もこの頃になると、もしかしたら、この病気にかからない、あるいは軽くて治るかもしれない、というような情報がもたらされてきます。
 そろりそろりとではありますが江戸時代も医学の発展発達はあったのです。そのことについては・・・・・
 次回につづく