2019年5月20日月曜日

蘭学事始め その4

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 ポルトガル語からオランダ語へ
 
 1639年にポルトガル人がマカオに追放されて日本とヨーロッパとの貿易相手はオランダ人に限られるようになる。その2年後には出島にオランダ人の商館を囲い込み、最終的な鎖国(幕府により貿易管理体制)が完成する。
 
 ポルトガル通詞は必要なくなり、オランダ通詞が必要となる。日蘭両者の交流に必要なバイリンガルの人は日本人のみに要求されるようになる。というのも禁教管理貿易を徹底したい幕府はオランダ人が自由に日本語を操れるのを好まなかった。誰かれなく日本人に日本語で話のできるオランダ人がいないようにしたのである。
 そのため出島の商館長以下館員は一年で交代する(バダビアの補充員と)ことを義務づけた。日本語を覚えるのを警戒してのことと思われる。
 
 そこで日本の長崎におけるオランダ通詞の制度ができたわけである。いらなくなったポルトガル通詞から転職したものも多かったと思われる。
 この制度は世襲化し親から子へと受け継がれていく。
 
 1639年にヨーロッパ勢でオランダが日本貿易を最終的に独占するわけであるが、この時以前は先のポルトガル、そしてイギリスも日本貿易に参入したのである。その後、オランダのイギリスに対する蹴落としもあり、またカトリックのポルトガルが禁教を徹底したい幕府に嫌われたこともあり、オランダ以外はみんな敗退していった。
 
 ヨーロッパの文化学術を日本が勉強するのにオランダ語を通して蘭学がやがて興隆するのであるが、もし貿易が禁止されていなければポルトガル語、英語を通じての文化学術の受け入れの可能性もあったのである。
 
 それでは江戸時代において我々は唯一の欧州の言語としてオランダ語を選んだが、この選択はどうだったのであろうか。良かったのであろうか。
 その言語を通して学問を研究する価値があるかどうかは、その国の言語によって書かれた学術文化の本がどれだけ豊かであったかにかかっている。
 
 その意味でいうとポルトガル語は弱い。じゃあ英語は?今だと学術論文の大半は英語で書かれているから
 
 「ああ江戸の人は悪い選択だったな、オランダ語でなく英語を選んでいた方が勉強になったろうに!」
 
 と思われるでしょうね。
 
 しかし17世紀は違いました。この時代のオランダは数学、物理、医学、天文、あらゆる自然科学が花開きました。オランダ語の本もたくさん書かれました。
 ヨーロッパの学術の情報もここに集まり、他国の本も集まり、オランダに学問成果は集積されたのでした。フランス、ドイツとは地続きでこの二国の本は容易に手に入りました。また両国の学者もオランダによくやってきました。
 
 この時代(17世紀)を見ると、大胆に例えればオランダ語は都会的で洗練された言語、英語は泥臭く田舎者の言語という感じだったのではないでしょうか。
 
 つまり、日本が鎖国に入った17世紀に日本は最も有用性の高い(学問研究)オランダ語を選というわけです。

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