江戸幕府は鎖国をして国を閉ざしてしまったと、幕府の外交政策を否定的にとらえる人が多いが、私はこの時代においては非常に賢明な外交政策ではなかったのかと思う。
また『鎖国』という言葉であるが、国を閉ざす、という強い意味に解釈しない方がいい。西暦1640年以降とられた政策は「貿易相手国制限令、日本人の海外渡航禁止令」とでもいうようなもので、国を完全に閉ざすものではなかった。
幕府がこのような政策をとる動機は、カトリック教の広まり、それと島原のカトリック教徒による一揆であった。この宗教一揆はかなり大きく強力なもので、幕藩体制の根幹を揺るがしかねない要素を含んでいた
幕府の立場から言えば外交政策の大転換に打って出たのは当たり前である(すなわちカトリック教国との貿易・交流の断絶)
しかし、すべてのヨーロッパ諸国と断絶すれば、外国産の必要とされる品物の供給は難しくなる。
しかし、すべてのヨーロッパ諸国と断絶すれば、外国産の必要とされる品物の供給は難しくなる。
そこで幕府がとった政策はカトリック教国と非カトリック教国に分けて一方には貿易を許したことである。非カトリック教国とは具体的にはオランダとイギリスである。この二国は継続して貿易をおこなうことが以後も可能であったが、結果的には、主に貿易競争に敗退することでイギリスは日本から後退してしまった。
オランダのみになったことは、よかったことであると思っている。もしイギリスを選んでいたら江戸時代を通じ220年もの長きにわたって平和的に交易できたかどうかわからない。
幕府は初めから(17世紀初期~)西洋諸国の軍事技術、科学技術のポテンシャルの高さを十分認識していたと思われる。その中でも特にそのポテンシャルが高く、かなり侵略的な国、イギリスを選ぶのではなくそのすぐ横にある、中程度の国で平和的な貿易立国オランダを選んだのは全く正しかったと思っている。
幕府の賢明なところはオランダに単に貿易を許したばかりではなく、ヨーロッパや世界の情勢を毎年知らせる「オランダ風説書」の提出をオランダに義務づけたことだ。
これにより世界の情報は毎年、オランダを通じ、かなり客観的に入って来るのである。幕府はフランス革命、アメリカ独立なども一年以内のラグタイムで知っていた。ペリー来航ももちろん前年に知っていた。(ただしそれをどう活かすかは別問題だ)
このような外交ポリシーは大成功をおさめたといって過言ではないと思う。そうでなければ二百数十年もこの政策は破たんすることなく続けられるはずがない。
そしてその方針で成功したため、以後、外国との外交・貿易での軋轢に悩まされることなく、日本は国内のことに専念でき、平和が続き、江戸文化が爛熟するのである。
オランダとの貿易については百聞は一見に如かず、こちらの動画でご覧ください。
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