「芸術か猥褻か」という論争は昔からある。そんな大げさな論争ではないが最近のニュースからこんな話題をとりあげた。
島根県奥出雲町が昨年夏に公園などに設置したダビデ像とビーナス像が、思わぬ問題を引き起こしている。
町出身者が町に寄贈した大理石製の彫刻で、町は「一流の芸術作品として教育的価値がある」と説明するが、巨大な裸像を目にした町民らは「子どもが怖がる」「教育上ふさわしくない」と町議に苦情。町議会でも取り上げられ、山あいの町で論争が続いている。
一体のダビデはこんな像である。世界史、美術史の教科書で見知った人も多い。
私などは、けっこうなことだと思うが、そう思わない人もいるみたいだ。(それが少数派か多数派かは記事の中にはなかった。)
こんな要望があるらしい。
約5メートルの裸体。小中学生や家族連れらが訪れる場所であるため、住民らから町議に苦情が寄せられ始めた。「子どもが怖がる」「威圧感がある」「もう少しふさわしい場所に移設して」「(ダビデに)下着をはかせて」などの声があるという。
さすがに有名な芸術作品という認識もあるし、またつつましやかな山村であるため、「猥褻だ!」と断言する人はいない。ふさわしい場所に移動せよ、とかパンツをはかせという要望だ。
欧米では公共の公園、広場にはこのようなグレコローマンスタイルの裸体像は何の差しさわりもなく並べられていて苦情などは聞いたことがない。
それだけ日本人は羞恥心が強いのだろう。
私にはダビデ像、ヴィーナス像、はそれぞれ男性肉体美、女性肉体美の理想的な美を表現したものであるという認識がある。
このミケランジェロのダビデ像は肉体の理想美である。別の言い方でいえば「均整美」、日本人には逆立ちしてもまず無理なプロポーションである。
この肉体の均整美はギリシャに遡る。肉体の理想的な美しさは幾何学的なつり合い、各部位の比率の調和から生まれるという考えがそこにはあるようである。
よく言われているのは『黄金比』である。(長方形の入れ子的な比率から生まれたもので長方形の各辺をa,bとするとその相似の長方形がその長方形の中に無限に入れ子構造になるものである。a : b = b : (a + b) )
ヴィーナス像は黄金比によって作成されているというのは有名である。
裸体とはいえダビデやヴィーナス像のように均整のとれたある意味幾何学的な「美」を広場、公園に置いて鑑賞するには何の問題もない思うのだが・・・
実際にこのようなプロポーションを持った男女など日本人にはまず現れないだろう、かなしいが我が民族の遺伝子だから仕方ない。それだけにほとんどイデアの世界のようなこれらの肉体は猥褻の対極として「美」として受け止められるのではないだろうか。
もしこれが日本人に身近なリアルさを持った肉体ならば猥褻にもなり、醜くもあるだろう。例えばこんなダビデ像・・・・・・
『メタボなお父さんダビデ像』
また、意見として下着をはかせよ、というのがあるが、こんなダビデになれば・・・よけい猥褻さが増すでのではないだろうか。
ところで私が高校時代の時、このダビデ像の股間を見て不思議に思い調べたことがあった。
まず股間を見ていただこう。
2つのことに疑問が湧いた。一つはダビデはイスラエル人である。とするとイスラエルの風習として『割礼』(チンポの皮の先をチョン切る)がない。(ダビデの時代はなかったのか)、割礼がないどころかダビデは包茎である。(見たところ真性包茎のようだが)、これはこのダビデの年齢にとって特異なのか否か、これが二つ目。
さてこれの解決は・・・・・もちろん私なりに調べて納得しました。美の鑑賞ばかりでなくこのようなことも教材にして中高生に教えればどうでしょうかね。私が講師で呼ばれればいつでも行きますけど。
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