ようちゃんのブログにあった馬頭観音の石仏を見るため自転車で渋野へ行った。
ちょっとわかり難いかもしれないが、年号を見ると古いもので明治初年、新しいものだと昭和8年のもある。
意外と新しい気もするが、考えるとわかる気がする。
多くの馬が街道で酷使されるようになったのは、江戸時代ではなく明治になってからである。
それまで馬は乗馬が基本であり、また背に荷を乗せる場合でも「一駄」といって決められていた。振り分けにしたりして馬の背に積むものでそんなに多くはない。人に引かれて馬子唄でも聞きながら馬も人ものんびりと街道を行き来していた。
しかし明治になり、中央集権国家になり、交通運輸の大量かつ迅速さが求められるようになった。そこで西洋にならって、馬車、荷馬車の登場である。それまでは日本には馬に車を牽かせるなどということはなかった。
そうなると、馬蹄をつけられた馬車馬として、馬の世界は江戸の牧歌的環境から激変する。一心不乱に死ぬまで働くことを『馬車馬のように働く』というが、そのとおり、馬は当時の(自動車が普及するまで)陸上輸送の重要手段として酷使されまくるのである。(鉄道があるというかもしれないがこれは陸上輸送の線であり、面は馬車、荷馬車に頼らなければならなかった。)
鞭打たれ、休む間もなく働かされ、最後には動かなくなったり、病気になる馬も続出しただろう。
「ああ~、お江戸の昔がなつかしいよぅ~~、ブヒヒヒヒ~~~ン」
と泣いたに違いない。
しかし、そんな馬を直接酷使するのも、馬車馬のように働かざるを得ない底辺の労働者、資本家に酷使されるいわゆる『馬車引き』たちである。
彼らは、馬にそうせざるを得ないのである。でも、馬の苦しさもわかる。そこは優しい日本人の心情である。生きる者同士、こころも通い合ったに違いない。
「ウマよゆるしておくれ、おいらも生きるためお前をこうせにゃならんのよ、」
そして死んだ馬の冥福のため、あるいは馬の無病息災、馬の安楽を願い、馬頭観音をつくったのではあるまいか。
路傍に残る馬の供養塔である馬頭観音の石仏を見ていると、そんな情景が浮かんでくる。
上の写真の最後は「牛頭天王」とある。これは祇園信仰に基づくものではなく、馬頭観音にあやかって、やはり「牛」の供養塔の意味合いがあったのではないかと推測するがどうであろうか。
北山から法花の方に自転車で走っていると、道のガードレールに雑草の「葛」が繁茂して巻き付いていた。それを見ながら、
「今は雑草として嫌がられ、刈られる葛だが、飼料としては栄養価が高いんだがなぁ~」
江戸の昔、牧歌的環境で、のんびりして、可愛がられていた馬が路傍のこの葛を
パクリ、パクリ、と食べている姿を想像しつつ、今回の小さな旅を終えた。
動画がありますここクリック
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