2019年5月20日月曜日

蘭学事始 その5

20121227

 江戸時代の阿蘭陀語の専門家は阿蘭陀通詞
 
 皆さん、中学に入ったとき新教科で「英語」に接しましたね。今のガキは幼稚園のときから耳目で英語に親しんでいるから、中学に入って英語に接しても驚きもなけりゃあ感動もありません。でもワイらのようなド田舎に暮らす昭和三十年代の中学生にとって英語に本格的に接するのは中学の英語が初めてでした。
 
 もっともアルファベットについては、ワイらが小学生だった30年代初めは5・6年生の国語の時間、ローマ字と称する日本語文をローマ字表記した小冊子を勉強しましたから、日本語のローマ字は読めました。
 これが英語学習に役立ったかどうかはわかりませんが、まあともかくアルファベットは読めました。ところで江戸時代にも江戸や大坂の町の薬屋の看板にアルファベットがありました。いかにもオランダ渡の効きそうな薬をアルファベットでアッピールしたんですね。
 下は阿蘭陀ものを扱う唐物屋、アルファベットの文字が見える
 
 このように私が中学になったとき英語に接した状況は、江戸時代に日本人が始めて阿蘭陀語に接した状況とあまり変わらぬものでした。異人さんと接したこともなければ、異国語を聞いたこともありませんでした。
 そのため勉強にはいろいろ苦労しました。
 
 中学から以降の学校では英語は教科としてずいぶん大きな顔をしてのさばります。主要5教科どころか、3教科、いや2教科になっても英語はその一角を占めます。
 大学入試なんかでは英語科目は必修です。国語や数学は選択でもありえるのですが英語はどの学校でもついて回ります。
 
 中学一年で英語の本格的勉強が始まりました。歴史的追体験でちょっと大げさに言えば「蘭学事始ならぬ英学事始」ですね。
 まあ壮大な志を持ってやり始めた江戸時代の蘭学の初学の人との比較はどうかと思いますが似たような苦労はあったと思いますよ。
 
 まずテキスト(中学教科書)をぱらぱらめくるが当然ちんぷんかんぷん。文の組み立て構造なんかは日本語と似たところなどまったくない。手がかりさえない。
 耳学問で言えば今の学校のようにネイティブの英語の先生なんかは皆無。 ほとんどの英語教師は戦争中師範学校で敵性語であった英語は勉強していない。しかし敗戦後は一転、英語がもてはやされだして急遽、促成栽培の教員養成で一丁上がりの先生だった。
 
 先生からしてカタカナ英語を棒読みするような発音ですから、うれしいことに(?)江戸時代の蘭学事始の時代と変わりませんでした。
 
 前置詞のwithをwhichと混同したのか「ホイッチ」とかいう先生もいたし(でもwhichの発音でもない!いったいなんじゃ!)、またある先生はRとLの発音の使い分けができんかったら、日本人は米ではなく虱を食べることになるんだぞ、と脅しまくられましたが、その先生もできてなかったり・・・・・
 まあひどいもんでした。
 
 環境はこのように江戸時代の蘭学事始めの時とあまり変わらぬものでしたが、やはり江戸の昔より恵まれていたものがあります。それは詳しい辞書類や文法書があったことでした。先生の口語や発音は出鱈目が多く、勉強になるものではありませんでしたが、辞書・参考書類は一流のものが充分そろっていました。
 そのためか、言い訳のように聞こえるかもしれませんが、私らの英語の勉強は勢い英文解釈や文法解釈、型にはまった英作文が中心でした。だから日本人の大学生は英語を読めたり、書けたりしても外人としゃべることはできないと、よく言われますね。
 
 これは江戸の初期(17世紀)に阿蘭陀語の専門家として阿蘭陀通詞が生まれてくる時でも同じようです。
 阿蘭陀通詞の仕事は阿蘭陀船からもたらされる『風説書』を訳すること、オランダ船の船員名簿、積載品目の目録の作成がもっとも重要なものであります。だからやはり文章を訳したり、書いたりするのが中心になります。
 
 通詞は役人であり、世襲化します。役人らしく文書主義と言おうか阿蘭陀語の文章を書いたり、読んだりするのが得意だったのですね。
 実は役人の「通詞」よりもオランダさんの身の回りの世話をする出島にいる下っ端の者の方が口語・つまりオランダ人との通訳に秀でていたと思われます。
 
 しかし、毎年一回長崎から江戸城において将軍に謁見するオランダ人の通訳はそんな下っ端が江戸城に上がって将軍とオランダ人との通訳をするわけにはいきません。やはり「通詞」が付き添います。でもいったように読み書きはかなりなものでしょうが、口語で同時通訳は苦手だったようです。
 
 なぜ、そんなことがわかるのかというと、オランダ人自身が
 
 「江戸城における通詞の通訳は全く役に立たない。我々の言うことや将軍の意向などほとんどうまく訳せず、困った。」
 
 と言っています。江戸城の謁見は儀式ですから役立たずの通詞でも何とか取り繕ったのでしょうが、ある時、将軍の思わぬ質問(アドリブ)の通訳ができないという失態を招きます。それで幕閣もあきれ果て老中直々に
 
 「こりゃ~~~、もう少し身を入れて通訳の勉強せい!以後、こんなことが起ったら許さんぞ!」
 
 と叱られる始末。
 
 これで発奮したのでしょうが、少しはましになったのでしょうか、でも18世紀になってもオランダ人から
 
 「通詞のオランダ語は妙な言い回しが多く、役立たない」
 
 と言われています。
 さすが18世紀も終わりころになると「通詞」でも口語の通訳に熟達したものも現れますが、日本人の特徴と言おうか読み書きの文章に偏重の傾向は否めないですね。
 
 しかし、これは学問にとっては悪いことではありません。外国の本を十分読みこなすところから外国の学問の勉強はできるものですからね。まして翻訳で和文、蘭文の文章が書けることはそれに伴う相当な学問的素養がなければなりませんものね。
 
 アジアの国際的な港町では自国語の読み書きもできない下層民でもヨーロッパ言語の口語はペラペラしゃべれました。しかし、読み書きができないのでは学問には結びつきません。
 
 喋るのはちょっと下手でしたけど蘭文翻訳、和文翻訳を自家薬篭中のものにした阿蘭陀通詞から蘭学は芽生えてくるのです。
 

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