2019年5月25日土曜日

猿楽能 その6 釘付けにしたる桟敷の倒るるは

20130903

 今から7年前、九州の高千穂に旅行した。その時、高千穂神社で夜神楽なるものを見た。神事と深く結びついたものであり、大昔から伝えられてきたものだ。悪神である大蛇に人身御供される美しい娘を旅の屈強な若者が退治して、その娘と結婚するというストーリーを持った神楽であった。
 
 これからお話しする1349年貞和5年に開かれた勧進能で演じられたものを現代に存在する色々な舞台劇と比較すると一番類似性の高いのは現代の能や歌舞伎ではなく、7年前に私が見た高千穂の夜神楽ではないかと思う。そう思うのは、現代の劇場内ではまずありえない車座になって坐って見る人々、そして演じるものとの距離の近さ、酒食を伴う宴会のような雰囲気、心を躍らす祭礼のような笛太鼓の伴奏、などの全体の雰囲気である。今、歌舞伎や能を見に行ったとてそんな感覚は到底味わえない。(飲食禁止でブロイラーの鶏よろしくお行儀よく並んでみなければならない)
 
 当時はそんな堅苦しい観劇作法はなかった。見る作法はけっこう自由であった。だが銭もなく力もない庶民は見物できても自由気ままではない。見えにくい場所のあたりに大勢が押し競まんじゅうのようにギッシリ詰めあっているので飲み食いしながら羽目を外すことなど難しかった。
 しかし、財があるものや大名、貴族などは、いい場所にあらかじめ桟敷席を作らせておき、葭簀や幕を張り巡らせボックス席をつくりそこで思う存分羽目を外しながら見物できた。飲み放題、喰い放題。そして観劇中であっても酔った勢いか、はたまた田楽能に触発されたか、その場に侍らした美女や美童の胸だのお尻だのおちんちんだのいじりまくり弄び放題、トチ狂えたのである。
 
 今に例えればアルサロやおさわりバーのボックス席からショーを見るようなもんですわな。ただし当時の場所は青天白日の四条河原だったが・・・
 
 その四条河原、中世においては河原は土地支配の及ばないアジール(聖域)、これまた支配に属さない人々がそこに住んでいた。そんな場所だからソドミィ(非難されるべき快楽)の場所にもなるわけで・・・つまり売春窟とか劇場ですわな
 そこでの大勧進能である。と言っても当時は劇場なんかありません。ただっ広い河原がひろがるだけ。そこへ人を集めての勧進能である。もちろん露天。最低限舞台は作らねばならない。だから舞台のみは勧進元が作った。
 
 「あとは見る人、各自が適当な場所でどうぞ~~」 
 
 と何にも用意していない。見る人々による河原の場所取りが始まるわけだ。まるで今の花火大会の場所取りみたいですわなぁ。今だとどこのどなた様でも早い者勝ち、で、花見でもそうだが早くから敷物や座布団で観覧席を確保しておくわけだ。でも時代は中世、権威権力が一番にモノを言う時代、お偉いさまがその力の順位によっていいところから場所は占められていく。お偉いさんだから地面に茣蓙をひいてというわけにはいかない。ちゃんと専用の桟敷を作る。
 
 そんな桟敷がめいめいに作られた。当時大人気の田楽能が京都で行われるため上層の武士、貴族だけでも大勢の観覧桟敷が作られた。そのため一辺40数メートルの四辺形の土地になんと低中高の三層の桟敷が無計画に立ち並んだのである。今だとたとえば阿波踊りの桟敷などは全体の主構造から桟敷を作っていくが、ここでは個々の桟敷が全く構造的には関連脈絡なく一つ一つが独立し、かつビッシリ隣と密着して作られていたのである。(これがのちに大惨事を引き起こす)
 
 当日は京の貴顕紳士が寵姫、寵童を引き連れ集まりも集まったり、なんと来ていないのは天皇のみで征夷大将軍足利尊氏、幕府管領をはじめとする高官、有力大名、他大名、摂政関白、皇族、貴族、有力者、上位者はほとんど見学に集まった。そしてあらかじめ作らせておいた専用の桟敷に入った。
 
 舞台における各田楽座の妙技は素晴らしく、芸能比べも優劣つけ難く、どれもこれも人々を堪能させていった。演目は次々に進み、芸能くらべの立ちあいが終わり、次の余興が始まった。
 
 それは比叡山の守り神である山王日枝神社の神が示現したお猿さんのお芝居、『猿楽』であった。楽屋から7~8歳くらいの子どもがあらわれたがその顔には猿の面が着けられている。御幣を差し上げ、衣装はと見ると赤地の金襴打掛で虎皮のズボンをはいている。
 
 それが舞台の橋掛かり(舞台の一部で橋様になっており欄干もある)へ斜めっ跳びにピョンピョンやってくるや欄干に飛び上がり、左へ右へとクルクル回り、さらには飛び上がりざまバク転するさまはまるで軽やかな毬のよう。まことにこの世の者とは思えず、きっと山王日枝の神が降りてきてこの神業をみせているとしか思えない素晴らしいものであった。神は小児や翁に降りたまうというがこの子どもはきっと日枝の神猿に違いないと、座にいる人みんな思った。
 
 満座の人は感動、感激のあまり、じっとしていることもできず、手や足をばたつかせ、
 
 「あ~ら。面白や、堪え難や!」
 
 おめき叫びあげ、しばらくは静まらない。(集団エクスタシー状態ですね。セックスの極快感のとき「ああ~~ん!死ぬ死ぬ」というようなものですかね)
 
 その時、将軍の桟敷のあたりより、美しい美女が桟敷の半分垂れさがった幕を扇で少し上げるのが見えた。桟敷深く侍(はべ)っている美女が感興に堪えず現れたとみて、これはいい目の保養だわい、と人々が思ったかどうか・・・と、その時である。
 
 一つの桟敷がゆっくり傾いてきた。それを「おや~」と見とがめた人は少ない。あれよあれよという間も有らばこそ、お互い密接に隣り合っている桟敷は次々、瞬時に傾きが伝染し、将棋倒しに一度にドウ、とばかりに倒れた。あっという間の出来事である。
 
 倒れ伏した何層もの桟敷の木材が落ち重なり、挟まれたり、敷き潰されるるもの数知らず。 こんなひどいさなかに悪い奴はいるもので、これ幸いと呻き苦しんでいる貴人の身に着けているものを強奪して逃げる者あり。そうはさせじと怪我をして動かないながら太刀を抜いて振り回す者もあった。
 
 多くの者は腰膝を打ち折られたり、また手足を打ち切られる者あり、また佩刀が自然に抜けてその刃でそこかしこ突き貫かれるて血にまみれるものあり、ちょうど茶の湯を沸かしていたものはその湯を身に浴びて大火傷を負い喚き叫ぶ。
 
 楽屋舞台の田楽の演者はと見ると、なんとまだ舞台で使った鬼の面をつけながらどさくさに紛れ衣装を盗んだ盗人を追いかけている。いったいこれは現実か!まさか地獄の獄卒の鬼の所業を演じているのか。
 家来どもはこのどさくさに主の女房を背負って逃げる人さらいを刀を振りかざして追いかける。まさに阿鼻叫喚地獄図絵が展開された。
 
 結局、死傷者数百人にも及ぶ大惨事になりました。けが人の中には高貴な人もいました。皇族で門跡の(大寺院の院主)梶井ノ宮様もお腰を打ち損じられたました。情け容赦のない中世人はこの後、そのことをおちょくった落首(狂歌)を四条河原に立てます。そこには
 
 『釘付けにしたる桟敷の倒るるは梶井の宮の不覚なりけり』
 
 どこにおかしみがあるのかというと、釘とそれを作る鍛冶(カジ、それを梶井の宮(かじいのみや)さんが不覚にも怪我をしたのをかけて、桟敷が倒れたのは釘を作った鍛冶(梶井)の不覚だよ~~ン、という、ことですが、
 
 もっと口の悪い連中は、梶井の宮はん、お腰打って、股の釘も立たへんようになってそれで寵愛の美童のケツの穴に打ちこめしまへんどすわ、と解釈するものもあったとか・・・・・ということはこの美童の名前がサジキというのかなあ~
 
 この大事故の直後から「これは天狗の仕業じゃ」という噂が広がります。そしてその噂を決定づけるもう一つの話しがこの勧進能と平行して進みます。そのお話しについてはいよいよ
 最終回ブログへつづく

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