2019年5月24日金曜日

江戸の大事件 その5

20130819

 対馬藩通詞鈴木伝蔵は生きて捕らえられ、逃亡中同役に当てた手紙によって自分が崔天宋を殺したことを告白しているのであるから、後は奉行所の取調べで詳細がわかるはずである。
 
 詳しい動機、そして単独犯か、手助けしたものはいないか、犯行の状況、逃亡の経路、匿った者は、などについて調べられた。伝蔵捕縛の前に伝蔵と同役の通詞連中は念のため拘束されていた。そして逃亡を助けたものも捕らえられ吟味を受けることになる。取調べはかなり厳しいものであったようである。町に流れてくるうわさでは、拷問のため伝蔵の歯がすべて抜かれたといっているが、それはあまり信用できない話である。
 
 その結果、伝蔵の単独犯であり、一味加担したものはいないとわかった。また伝蔵の殺意は崔天宋のみに向けられたものであった。加害者と被害者が一対一の状況である。これは両国にとっては悪くない状況である。他の方へ飛び火するのは避けられるからである。加害者被害者の国籍は違うが一般的な殺人事件として限定的に処理できる。
 
 吟味の結果、殺意を抱くにいたった状況も明らかとなった。以下説明しよう。
 
 『朝鮮通信使の下官が日本人の水手(カコと読む、水夫のこと)と言い争ったのが発端である。日本人の水手は朝鮮語なんかできないからトラブルは伝蔵のような通詞(通訳)を通して解決される。通詞は揉め事の最前線にも立たされるのである。
 事件前日の6日、朝鮮人下官と日本人水手が荷物揚げ場(川船から荷を揚げる船着き場)で言い争いを始めた。下官が船から降りたところ鏡を忘れているのに気がつき取りに帰ったところ見当たらなかった。それで水手が盗んだのだろうということであった。
 言葉のわからない水手だから通詞の伝蔵が間に立ったと思われる。そこに崔天宋も加わった。崔天宋は伝蔵に向かって、日本人はよく物を盗む、と断定的に非難した。これに対して伝蔵は、そうおっしゃいますが朝鮮の方々は接待の宿舎に備えてあるある器物をこれはいいものだと思うと、断りなく平気でもって行きますよ。これは盗っとじゃないですか。と反対に朝鮮人の盗癖を非難した。
 これを聞いて、崔天宋は立腹した。崔天宋は持っていた杖で伝蔵を散々打ち据えた。
 そして伝蔵はその日の夜が明ける前、通信使の宿舎に忍び込み、崔天宋を殺害後、逃走するのである。』
 
 伝蔵は対馬藩の通詞役で藩内では下級ではあるが曲がりなりにも武士である。当時の常識ではたとえ下級武士とはいえその武士を上級武士ではあっても打擲することはあってはならないことであった。まして杖・鞭で打つなど論外である。
 
 体を打たれるということ、それもみんなが大勢いる船着き場で、は死にも勝る最大の恥辱である。そしてその名誉を回復するためには相手の命と自分の命が必要であった。当時の武士とはそんなものだったのである。
 
 崔天宋が日本の武士のこのような実態を知っていれば杖で打つなどということはなかったであろうが、中央集権で官僚の序列がすべてに優先する朝鮮国家では上官は下官に対し、体罰は許されていた。だから崔天宋もそのような感覚で打ち据えたのであろう。それが死に勝る侮辱であるとは思っていなかった。
 朝鮮側では今回でも崔天宋殺人事件に関し、朝鮮人の下官が上官から職務怠慢で鞭打ち20回とかに処せられているのである。
 
 ところが日本では下級武士であろうと鞭打つなどは許されるものではなかった。罰として切腹、たとえ死罪になろうとも武士を打ったり叩いたりすることなどなかった。仮に主君がそんなことをすれば最大の恥辱を与えた上で「お前は死ね」というようなものである。主君への恨みの念を呑み、切腹するであろう。いや、反逆jもありえるかもしれない。それほどの辱めである。
 
 通事の伝蔵は口論での罵りあいなら朝鮮語や風習をよく知っているのであるから(朝鮮語の罵倒言葉は日本の比ではない、きわめて豊かな罵倒語が存在する)我慢もできたであろうが、船着場の大勢の前でぶっ叩かれたことは以上述べたように武士の名誉・対面の許容の限界を超えるものであった。
 
 浅野内匠頭のようにその場でプッツンしないだけの分別はあったようである。それをやれば 江戸城刃傷松の廊下のように儀式はメチャクチャ、周りに多大な迷惑を及ぼす。伝蔵は職務を放棄することなくその場は我慢した。しかし崔天宋を討ち果たす決意はしっかりと固めた。夜に入り殺害を決行する。
 
 伝蔵の供述が事実であれば武士としてはやむをえないことである。しかし一方の当事者は亡くなっている。これは本当だろうか?もっとも重要な点は、崔天宋が伝蔵をぶっ叩いたかどうかということである。これは目撃したものもいる。伝蔵の武士としての恥辱ということを考えた場合、口論の内容は関係ない。崔天宋が杖で叩いたかどうかのみが問題である。
 
 散々叩いたことは確かである。伝蔵の弁明もそれに集中する。しかしそうではあっても伝蔵は死刑を免れ得ない。前にも話したように江戸の刑罰は応報主義である。命には命を持って償うのである。そしてこの場合それに加えて『喧嘩両成敗法』も適応される。
 
 判決は以下のようなものとなる
 
 『本来ならば下手人(一番軽い死罪、財産没収はされない、縁者の処罰もない)に処するところではあるが、犯行後出奔したのは不届き(暗に切腹すべきであったのにそうしなかったとの意を含む)につき死罪(財産は没収、家は断絶、縁者は追放その他の罰を受ける)に処する』
 
 上の判決には下のような含意があるのではないだろうか。
 伝蔵の武士の恥辱を雪ぐという言い分はもっともである。相手を討ち果たしたことでその名誉は回復されたのであるが、本来は喧嘩口論から起こったことで討ち果たした後は切腹でもしてくれればよかったのだが逃げたのは怪しからぬ仕儀である。逃げずに名乗り出ればもっとも軽い死刑である下手人にもしてもやったが、仕方ないのそれより一等だけ重い死罪にする。
 
 5月2日、大坂木津川河口の刑場で鈴木伝蔵は斬首される。日本側は非公開でやろうとしたが朝鮮側は立会を強く要求したため結局朝鮮側の54人の立会を許した。これで朝鮮側も納得し、事態は収束に向かっていく。
 
 日本側も朝鮮側も個人的な諍いが元の殺人事件ということでこれで手打ちとなる。朝鮮通信使は5月8日、大坂を出発し帰国の途につく。
 
 次回は最終回、この事件が庶民に与えたインパクトについでお話しします
 最終回へつづく

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