江戸の中期、今の平成でもまず起こらないような大大事件が起こった。われわれの常識で考えても江戸の中期にそんな大事件が起こったとは信じられない。それは何か、
『外交官殺人事件』である。そして犯人は???
外交官が日本において殺害されるというのは明治以降、寡聞にして知らない。もしそんなことが起こって犯人は?ということにでもなれば、あの平成湾岸署の青島刑事事件簿でも超一級の事件となることは確実でしょう。その外交官の国が大国であれば国家を揺るがす影響もあります。この筋、おもっしょそうだからフジテレビはん是非作ってほしいわ。
閑話休題!
ともかく今でさえ、それほどの大事なのです。それが幕末ならいざ知らず、江戸時代中期のパックストクガワーナ(鎖国による平和日本の体制)の日本で起こったのです。
でもそれって、おかしいですよね。いま鎖国日本といいましたよね。鎖国なのになんで外交官がいるの?外交官とは正式な国交の国から来た政府の役人で、またそれを公式に日本の幕府が認めたものでなければなりません。他国との交わりを禁じた徳川時代にそれはありか?どうなんでしょう。
江戸時代は一般に鎖国と言われていますが完全に国を閉ざしたわけではありません。日本人の海外渡航を全面的に禁止したため『鎖国』というようなよばれ方をしてますが、3か国とは貿易をすることは認められています。その3国とは阿蘭陀、中国、朝鮮です。
その中で唯一、国交を持った国がありました。朝鮮です。普通、国交とは国書の交換、外交官の派遣、外交官の駐在所設置、貿易及び互いの国民の行き来、という包括的な意味を含んでいます。江戸時代、そのほとんどの条件を満たす国交がただ一つの例外として朝鮮とあったのです。それもまったく対等の立場で。
国交のもっとも重要な国書の交換をになう外交官の派遣を我々は『朝鮮通信使』と呼んでいます。だいたい将軍の代替わりに行われます。朝鮮の首都ソウルを出発し、江戸まではるばるやってくるのです。
そのコースはこのようなものです。
次の絵図は江戸城を退出する通信使の行列です。
ただし、この外交官による国書の交換は片務的なもので朝鮮側からは日本に来ますが、日本の方はソウルまでは派遣しません。国書、あるいは公文書の伝達は帰りの朝鮮通信使に託すか、対馬藩を通じて朝鮮の釜山にある日本公館(倭館と呼んでいる)で行いました。ちなみに釜山には海外渡航厳禁の江戸時代にあっては唯一の日本人居留地がありました。
なぜ国書の交換が朝鮮通信使のみの片務になったか説明しますと、幕府は当初はソウルまでの外交団派遣(対馬藩を代理として)の意図を持っていたようですが、朝鮮側が忌避しました。秀吉による朝鮮戦役の被害の再来を恐れたためだといわれています。うかうか外交団を日本から引き入れればソウルまでの地理、国内の国情をつぶさに見られ、再び侵略の情報につかわれたらまずかろうと思ったわけです。
ま、それはともあれ、朝鮮に対しては建前は善隣友好、完全対等の国交を持ったのです。将軍の代替わり毎にやってくる通信使は両国の親善有効に大いに役立ちました。両国は平和な貿易を行い、通商も盛んでした。幕府は通信使を国賓として莫大な費用をかけて手厚くもてなしました。
江戸の平和が続く限り、両国の平和親善も続くと思われていたとき、驚天動地の大事件が起こります。
『外交官殺人事件』
ジャジャジャジャ~~~~ン!いったいどこでどのようにして、そして犯人は・・・・・・
続きは次回ということで つづく
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