2019年5月20日月曜日

蘭学事始め その6

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 阿蘭陀人との出会い
 
 前に江戸時代、オランダ人と付き合ったのは良かったといったが、このオランダ人との最初の出合いは多分に偶然性が高いものであった。というのもボロボロになったオランダ船が命からがらの状態で豊後の臼杵(今の大分県)に漂着するのである。慶長5年(1600年)である。
 100人乗りの船だが漂着時に生き残っていたのは24人であった。この乗組員の中にはオランダ人のヤン・ヨースティン、イギリス人のウイリアム・アダムスがいた。後者は家康に仕え外交顧問となり、ヤン・ヨースティンも後に幕府に使える武士となる。ヤン・ヨースティンの名は今、東京駅付近の地名、八重洲口(ヤンヨースティンからきている)に残っている。
 彼らが日本の武士になったという歴史的事実に刺激され、ジェームズ・クラベルは「将軍」・SHOGUNという小節を書く。これは映画になってヒットする。
 
 この2人が誠実に家康に仕え、日本人と結婚し武士になったことは後々幕府がオランダに好意的に接する元となったのは間違いない。(家康は1609年にオランダに対し極めて好意的な貿易許可の朱印状を与える)
 
 このぼろぼろになったリーフデ号はもちろん今に残っていないが船尾にあったある木像は今も日本の栃木県の寺に残っている。
 これはオランダが生んだ偉大な学者エラスムスである。神学者、人文学者、哲学者である。
 残念ながら日本人にはこの学者の価値はわからなかったようである。この漂着したオランダ船が積載していたもので大いに日本人の注目を集めたのは、恐らく武器、航海用の羅針盤や装置・航海用測量器具、外科医料器具、時計類、望遠鏡などの科学技術品であった。
 これは以後、オランダ人と接するうちに生まれてくる『蘭学』の方向性を暗示すものである。エラスムス木像に無関心であったようにエラスムスのような人文系の学問より、科学技術、天文、医学のような方面の学問に日本人は興味を示し、勉強するのである。
 
 ところでこの漂着以降、オランダ人、イギリス人と接するようになって日本人はそれまでに日本に来ていたスペイン・ポルトガル人たちと彼らを区別するようになります。多分に外見上からきているのでしょう。オランダ人・イギリス人を『紅毛人』というようになります。スペイン・ポルトガル人は南蛮人です。
 北方系のヨーロッパ人であるイギリス・オランダ人は金髪・碧眼の人が多かったから紅毛人と言ったんでしょうね。対するポルトガル人なんかは小柄で黒髪、黒目の人が多いですね。

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