2019年5月22日水曜日

旅日記その5 江戸期の大坂は国際貿易品の集まるところ

20130312

 江戸時代は鎖国していたとよく言われるが、厳密には鎖国ではなく限られた貿易相手国を決めた管理貿易であったというのが正しい。


 さてその輸出物であるが、江戸期、天下一の経済都市、この大阪で調整された重要な輸出品はなんであろうか?長崎一港に国際貿易は制限され、また入港する船の数も制限されているため、勢い、より価値の高いものを輸出入することになります。


 まず考えられるのは貴金属ですね。安土桃山~江戸初期にかけて鉱山開発が進み日本は世界有数の金銀産出国になります。江戸時代の初めのころは金銀が輸出されます。貿易相手国は中国、朝鮮、オランダですが、その中でも銀本位制を取る清朝、李氏朝鮮は銀を欲しがります。生糸や朝鮮人参の輸入の決済として銀が用いられます。オランダはどちらかというと金に重きを置いています。


 そのため莫大な金銀が国内から流出してしまいます。当時の日本は金、銀の二本立ての本位制をとっていますから、正貨(金貨、量目銀貨)が不足してきます。元禄以降品位を落とした金貨、丁銀などを発行して対応します。しかし輸出用の銀まで品位を下げるわけにはいかず幕府は苦慮します。

 

 江戸の中期以降、銀に代わって大きな比重を占めてくるのは銅であります。伊予の別子などでとれた粗銅を大坂に運んで泉屋(住友)で精錬し、精錬した銅が輸出用の銅となりました。大坂は江戸時代の銅関係の施設が幾つかあります。



 今回は銅座跡に行きました。江戸時代の地図でいうとこのあたりです。動画に撮った付近はこの数百メートルの直線道です。ここを通り土佐堀川を渡り、すぐ左に折れると銅座跡があります。



 
今は遺跡もなくてこのような石碑が立っているだけです。


 そのほか、大坂に集まる輸出用の国際商品は蝦夷地から北前船で運ばれる『俵物』(フカの鰭、干しアワビ、干しナマコ)などがありますが、今回は銅座だけを紹介しました。

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