2019年5月20日月曜日

蘭学事始め その3

20121211
 ポルトガルとの出会い
 前回、印欧語との出会いは8~9世紀唐の長安あたりじゃなかったのかと述べましたが、それはインドの古言語サンスクリット語、あるいは西域の印欧語でした。
 ヨーロッパ言語との出会いは16世紀になります。公式によく知られているのは学校でも習った1543年(日暦・ひごよみ、と覚えた)種子島に漂着したポルトガル人との出会いでした。

 主に香辛料貿易を求めて1498年喜望峰を越えインドに到着したポルトガル人は1500年以降インド洋のみならず東南アジア、南シナ海まで到達します。
 この東アジア海域では後期倭寇の時代で海賊とも海商とも区別のつけがたい中国南部の人々が船に乗って活躍しています。その中に交じってポルトガル人も貿易に参入してきます。

 この時代日本は戦国時代でしたが、各地に蟠踞する戦国大名は領内の鉱山を開発します。特に有名なのは石見銀山です。日本で産出され始めた銀は東アジア海域で極めて重要な貿易輸出品となります。
 対する日本の輸入需要は鉄砲の生産の拡大によって硝石、鉛、が必要でありました。特に戦国大名に必要とされたものです。また他には日本では生産されない上質の生糸がありました。

 これらをもたらすポルトガル船は大名たちに歓迎され、優遇されます。南蛮の風俗品、小物も歓迎されたことでしょう。
 ただポルトガル人は貿易のみで日本に来る人々ばかりではなかったのです。本国の王カトリック教会の世界戦略から、貿易には必ず布教も伴ったのでした。貿易船には宣教師たちが乗り込み、日本の各地で強力な布教を進めていきます。

 このような戦略(日本をカトリック教国とする)を持つ宣教師たちは、布教のため積極的に日本語を習得します。また逆に日本人にポルトガル語を積極的に教え、聖職者の組織の一員とすることも行われました。
 ポルトガルの宣教師によって『日葡辞典』(日・ポ辞典)まで作られました。言語交流は深化し、日本語を自由に操るポルトガル人、ポルトガル語を自由に操る日本人も多く増えたことでしょう。

 そののち日本人キリスト教徒は増え続け、支配階級にも多くの帰依者を生み出しました。このことは秀吉や初期徳川政権にポルトガルおよびスペインのキリスト教布教戦略による侵略を疑わせます。
 秀吉は伴天連追放令をだし、初期徳川政権(秀忠将軍)は禁教令を出します。
 しかし、これはポルトガル人やポルトガル船による貿易を否定するものではありません。秀吉も徳川政権も宗教と経済を分離して、扱おうとしたわけです。貿易による利益は享受したかったわけです。宗教のみの禁止を意図したわけです。

 このような背景の上にポルトガル人たちは平戸、のちには長崎に囲い込まれます。宗教と不可分性の高いポルトガル人日本人に接ないようにしたわけです。長崎の出島はそもそもはポルトガル人の為に作られたものです。
 ポルトガル人を囲い込み、特定の港のみで貿易を許す管理貿易を徹底することにより、禁教と貿易は両立すると考えたわけです。

 さあ、そこで必要になるのが日本人のポルトガル通詞(通訳)です。日本人との交流を禁じ、管理貿易をするためにポルトガル人とポルトガル語で話せる日本人ポルトガル通詞が制度化されます。制度化された通詞はやがて世襲になり、通詞の家が固定してきます。

 このポルトガル通詞がやがてオランダ通詞につながり、蘭学の源流になるのですがそれはまた次回ということにします。
 
徳島とポルトガルといえばこの人ですね。昨日、行ってきました。
 モラエスさんの住居のあったところです。
 今は碑のみが立っているだけです。



 
 モラエスの住居に近い新町小学校にはモラエスの胸像がありました

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