2019年5月23日木曜日

江戸時代の阿波と蝦夷・松前とつながりはあるか

20130506

 今回の道南、青森の旅では多くの写真、動画をとって参りました。それを材料にいろいろな主題でブログを作成しようと思っております。拙いブログですがよかったらご覧ください。
 阿波と蝦夷・松前
 鉄道どころか馬車さえない江戸時代、ここ阿波から遠い遠い蝦夷地(北海道)松前、ほとんど交流などないと思われましょう。蝦夷地に一番近いところは旧国名でいえば『陸奥』、東北地方ですね。その地ならば交流もあるかもしれないが、南海道に属する西国阿波とは行き来などとてもとても・・・もし関係があり、その遠く離れた二か所が結びついているのならばなぜなのか、今日のブログはそのことを中心に進めてまいります.。
 それでは2年ほど前に作成した私のブログのこれをご覧ください。場所は撫養(鳴門市)の岡崎海岸近くのとある神社です。
 ここクリック
 3枚目の鳥居には寄進者の名前が刻まれています。奥州・松前、蝦夷地の松前のことです。時代は天保年間ですから江戸時代ですね。この時代にここ撫養の神社に立派な鳥居を寄進した人が松前にいるのです。屋号から松前の商人であったと思われます。
 このブログを読んで下さったらわかると思いますが、大坂から瀬戸内海を通って日本海に出て北上し、北海道へ向かう貨物船兼商船というべき『北前船』の途中の寄港地、その中でも撫養は重要な寄港地だったのです。重要というのは単なる風待ちの寄港地ではなくここで商品を購入したりする商売上の要地だったのです。
 だから撫養・岡崎港は蝦夷地の商人とも縁が深かったのです。それだから神社の寄進鳥居に名が刻まれたのです
 当時の北前船はこんな船でした。(今回の旅行での北前船博物館で撮影)

 積載量は大きいものでも一千石(150トン)、一本マストの帆船でした。このような船では大洋を一気に航海はできません。日本海側の港を次々経由しながら港から港へ北上していったのでした。そして北前船の特長として港港で、まるで浮かぶ商店のように商品を売り買いしながら蝦夷地に向かったのです。
 航路を示しておきましょう。
 これでは撫養は入っていませんが、重要な寄港地に間違いないです。

 大阪あるいはここ撫養で仕入れた商品を持って売り買いしながら瀬戸内海を西へ、そして日本海の港港を北上します。この航路の本州の最終寄港地をよくご覧ください。陸奥(今の青森県)の深浦湊です。ここを本州の最終寄港地として津軽海峡を一気に渡り、蝦夷地松前に行くのですが、荒い北海の海を渡るのですから、ここで日和を見たり、風待ちをしたりでこの深浦湊は北前船にとって最終の重要な寄港地でした。

 今回の旅行ではこの深浦湊のはずれにある日和山より深浦湊を動画に撮りました。防波堤の近代的な港湾施設が今はできていますが、磯の奥に広がる深浦湾は江戸時代の湊の様子を残しています。
 

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