2019年5月21日火曜日

はんぺん屋の五郎さん その3(蘭学事始外伝)

20130123

 その2の続きである。今回は日本側資料を基に話を進めていきます。その前にはんぺん屋の五郎さん、ベニョフスキーについて同じヨーロッパ人の評価を見てみたい。
 彼は航海記・冒険譚などの本を書いている。前回のわれら阿波人との遭遇の模様も彼の航海記によった。
 
 さて、彼のヨーロッパにおける評判であるが、彼の航海記・冒険譚は出版されるや大当たりをとった。壮大な冒険家、にして勇気知力胆力を兼ね備えた男として一時もてはやされる。
 しかし、彼の以前の経歴や彼と一緒に冒険した彼の仲間の記録の比較、その後の彼の言動などから次第に彼の冒険譚や探検の話、それからもたらされた儲け話などには疑問符がつくようになり、やがて大言壮語のほら吹き、とまで言われるようになる。
 
 後の(ヨーロッパの歴史研究家)人によると彼の航海記・冒険譚は大半は嘘だと評価されてしまう。
 ということになると、前回の話に出た阿波の殿様からの接待、歓談の内容なども嘘っぱちではないか、と思われている。日本のほとんどの歴史家もこの部分の話は信用できないと評価している。
 
 私も歴史の専門家が言うのだから、そうなのかなぁ~、と思うが、嘘と断定するには、彼は魅力がありすぎる冒険家である。
 実際に、彼はヨーロッパで戦争捕虜となり、西シベリアに流され、そこで脱走を企て、つかまり、さらに極東シベリアのカムチャッカに流された。そこで反乱を起こし、仲間とともに海へ漕ぎ出し、日本を経てヨーロッパに帰り着いたのは事実である。これは確かなことである。それだけでもあのインディージョーンズも顔負けの冒険家である。
 
 厄介なのは彼が確定した事実だけでもものすごい冒険家であるにもかかわらず、さらにそれにほら話が絡み付いていることだ。いっそ、何もしていないおっさんのほら話のほうが扱いやすい。全部嘘と断定できるからだ。彼のようなまったく途方もないような「冒険譚」はいったいどれがどれやらわからなくなる。一概に嘘と断定できない。
 じゃあ、そこでワイらの史料とつき合わせということになるが・・・・・・・・
 
 な、ななんと!阿波藩の史料が今のところ見つかっていないのである。それじゃあ、阿波人と遭遇したのは「嘘か!」と思われようが、それはないと断言できる。隣国の土佐藩や幕府史料、オランダ商館長の日記から確かめられている。
 
 特に隣の土佐藩の史料は詳しいのがたくさんある。しかし、土佐藩の人々との遭遇はわずか半日にも満たない。すぐに北方の日和佐に向かい、そこではわが藩の人々と何日も接触し、薪水食料などを供給されている。
 
 それなのにだ!寸の間の土佐藩はドサッと史料があるのに何日にもわたり濃密な接触を続けたわが藩にないのか?
 
 「まあ、ないもんはしゃあないわなぁ」
 
 史料がなけりゃ、それでおしまい、チョンチョンで、幕引き。
 実証的な歴史としてはそれ以上確かめようがないが、歴史小説のネタとして空想を働せば・・・
 はんぺん屋のゴローさんの前回の話は大部分が事実であった。ただ国法に触れる恐れがあり、藩をあげて秘密にし、史料も人目に触れぬように処理した。
 とも大胆に考えられる。

















 ただ、漂着した事実とそれに伴い薪水食料給与したこと、さらにはオランダ商館長宛の手紙を預かったことは、さすがに秘密にできず、幕府に報告、提出したものと思われます。
 
 これらの報告はかなり厄介で、江戸藩邸の留守居役が老中と折衝して正式な報告をしなければなりません。いろいろな調査もあり、書き直しを命じられることもあります。
 この年、明和八年だけではその処理はすまず、来年までもその処理に手を焼いたと思います。阿波藩にとっては・・・
まさに今年は明和八年来年は・・・

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