実方は一条天皇の不興を買い「歌枕見てまいれ」と陸奥の守に左遷される。確かに東北は平安時代辺境の地であり歌枕が多い。
では須磨・明石はどうだろう。京の都に近いから辺境とは言えないが・・・・。ところで、みなさん五畿という言葉を知ってますか?五畿七道という使われ方をします。七道は地方、五畿は中央、中国流に言えば中原の地であります。その五畿は大和、山城、和泉、河内、摂津の国です。この五畿の辺境が須磨明石です。摂津の国の端にありますね。
須磨明石は五畿という中央では辺境になります。そのため実方のように大きな左遷ではなく、小さな左遷、あるいは閑居、流謫の地としてここは選ばれました。光源氏の閑居流謫地として有名ですが、五畿という範疇では辺境の地だったのです。
ここはまた五畿と地方の境にあるため『関』が設けられていました。須磨の関です。これは西の関、反対にある五畿の東は山城の境にある『逢坂山の関』が有名です。
逢坂山の関もここ須磨の関も歌枕として有名です。明石には他にも歌枕があります。今日はそれを紹介します。
須磨駅からてくてく歩いて山の方を少し登ると須磨の関跡が稲荷神社の境内にありました。
歌碑も立っていました。
そこも撮影して同じように歌を載せました。これも百人一首で有名ですね。明石海峡の向こう舌のように出ているあたりが淡路島の松帆の浦です。
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