2019年5月24日金曜日

江戸時代の大事件つづき その2

20130816

 だいたい将軍の代替わりごとに派遣されていた朝鮮通信使は江戸幕府になってすでに11回を数えた。今回の目的は10代将軍・徳川家治の襲職祝いであった。
 
 左はその通信使の最大イベント『国書伝達の儀式』に向かう通信使の行列である。輿に乗っているのが通信使の正使である。儀式の場である江戸城の大広間に向かうため江戸城の大手門を通過するところであろう。
 
 時は明和元年(1764年)、江戸城での国書伝達の儀式は2月27日であった。儀式は将軍臨席の元つつがなく終了した。その後、城中、あるいは江戸の宿舎において盛大な供応を受け、そして儒者や上層の武士らと交歓し、いよいよ帰国の途に着くため江戸を出発するのが3月11日、やはり東海道の宿場町でも供応接待を受け、その地の漢学者らと詩賦などによる交歓を進め、行列は平穏無事に帰っていく。
 
 大坂着が4月5日、大雨の中を宿舎の西本願寺津村別院(北御堂)にはいっていく。(今も御堂筋にこの寺はある)江戸からここまでは陸路だったがここからは水路をとる、船の調整のためしばらくここで滞在予定だ。
 
 次の日の6日は何事もなく過ぎた。ところが翌7日未明、驚天動地の大事件が勃発する。朝鮮通信使の中官の一人、崔天宋(日本ではサイテンソウと呼ぶ)が殺害されたのである。
 
 単なる殺人事件ではない。外交団の一員が殺されたのである。犯人が誰か、動機は、犯行時の状況は、単独犯か、複数あるいは組織犯か?その如何によっては国交断絶、武力衝突の可能性もある国家間の大事件である。日本側も朝鮮側も対応を誤れない。
 
 その殺人事件についてこれからお話しするわけであるが、日本側の史料は多くが残されていて、当時の藩、大阪城代、町奉行、そして幕府の公文書も残っている。しかし国家間の間に起きた殺人事件となると、一方的な資料だけでお話しするのは偏りをもたらす。そこで朝鮮側の史料を探すと、いいものが見つかった。朝鮮の科挙に受かって官僚となり、今回の通信使に書記として参加していた金仁謙がハングルの日記を残しているのである。彼は使節団の中では学問にかけては誰にも引けをとらない学者肌の人である。その彼の書いた日記に(日本に対する蔑視感はあるが)書いてある事実は十分信用に値するものである。
 
 その日記から・・・4月7日(原文はハングル)
 
 『・・・崔天宋が開門を上役に報告した後、自分の部屋に戻って寝ようとしたところ 一人の倭人が胸の上にのしかかり刃物で喉を突き刺した。崔天宋は驚いて目を覚まし、声を上げて起き上がれば、その男は刃物を捨て転がるように逃げていく。(このとき逃げる犯人は寝ていた朝鮮人水夫の足を踏み、驚いて目を覚ました水夫に目撃されている) 一行の人々も仰天し急ぎ起き出し集まってみると崔天宋は槍の穂先のような刃物を抜き取り倒れ伏していたがその苦悶のさまはとても見ていられない。卯の刻(午前6時頃)に絶命する。残酷、無残、言葉もない』
 
 彼が目撃したわけではないが同じ宿所に泊っていて目撃した朝鮮人から直接聞いたものである。
 
 これを読むと殺人事件には間違いなく。犯人と目される逃げていく倭人の目撃情報もある。そして何より有力な証拠は現場に凶器である鋭利な刃物(槍の穂先様とあるが)が残されている。
 
 目撃者にしても犯行現場を直接目撃したわけではない。しかし深夜、忍び込み犯行現場から逃げていく倭人様の人物は犯人と強く疑われる。この目撃で「倭人が逃げていく」との証言だがなぜ、倭人とわかったのか、捜査する上では聞きたいものだろう。それは容易にわかるものである。倭人と朝鮮人とでは着ている衣服は一目瞭然、また衣服は変装できても髪型までは変えにくい(朝鮮人は月代をそらない、総髪である) で、足を踏まれ目撃した水夫は倭人といったのだろう。ニンニク臭くなかったという目撃証言は得られていない。
 
 また有力な物的証拠は現場に残された槍の穂先様の凶器である。持ち主、出所がわかれば犯人に結びつくものとなる。
 
 しかし、ここは日本の大坂である。朝鮮人同士の内内の捜査ならいざ知らず、朝鮮側が日本人の捜査や槍の穂先様の刃物の出所を知れべられるはずはない。至急、日本側に通報して初動捜査を急いでもらわねば、犯人を取り逃がしてしまう。朝鮮側は急ぎ直接の責任者である対馬藩に至急この事件を報告し捜査を求める。
 
 ところがである。日本側に通報しても、その対応が極めて鈍い。著者は憤激する。再び、彼の日記を読もう。
 
 『・・・正使(大使)が通訳官(朝鮮側の)を蛮人(日本人のこと)のもとに行かせ、罪人の居所を明らかにせよと命じられる。しかし、蛮人は無礼にも動じる気配は全くない。日が暮れるまで待ったが一言の返事もない。・・・憤懣ここに極まる』
 
 再三、正使は日本側に要求するが、夕方まで何の音沙汰もない。そしてようやく夜に入って日本側(対馬藩)の役人が訪れてくる。この時。最初の検視も(対馬藩役人によって)行われた。
 
 ところが著者によると翌8日になっても役人は殺人事件であるとも断定しないし、もちろん犯人を捜すでもない。捜査の説明もない。朝鮮側は崔天宋の遺体の湯潅を行い葬儀をしたい旨、対馬の役人に申し出るが「遺体に手を付ければ今後のことは責任が持てない」と脅すのでそのままにしておいた。遺体は腐敗が始まり(旧暦のこの季節は今の5月中下旬、かなり暑い)異臭が漂ってくる。
 
 また次の日、9日になって、今度は幕府の役人(城代の部下、大坂町奉行所役人)がやってきて再度の検視。それでようやく遺体の湯潅ができ葬儀の準備にかかることができた。
 
 と、ここまでが発生から3日間の朝鮮側から見た殺人事件の対応である。これを読むと日本側の対応の遅さが異常である。殺人事件ならさっさと検視を行い、凶器もあるし、目撃者もいるのだから、すぐに初動捜査にとりかからねばならない。なぜ、こんなに日本の対応が遅れ、朝鮮側の著者を憤慨させたのだろうか。
 
 次回は日本側からこの事件発生時の最初の動きを探ってみよう。その中でなぜかくも初動捜査が遅れたのかが明らかになるであろう。
 
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