今、大河ドラマで『八重の桜』をやっていますね。大河では幕末ものが多いですが今年も幕末の時代背景のドラマです。その中で孝明天皇の役は市川染五郎がやっています。その孝明天皇は江戸時代の天皇の中では幕末の動乱という時期も影響してかかなり政治的な動きをしています。
江戸期の天皇の政治的な活動は幕府のもっとも嫌うところで、江戸期を通じ幕府は極力天皇のそのような動きを封じました。まさにそれは『封じ込め』で江戸初期以降、天皇が御所から外へ出る行幸もなくなりました。天皇の権威もできるだけ目に触れないようにしたのです。
将軍の上洛も3代将軍以降なくなりました。名目上とはいえ天皇は将軍より上位の存在で将軍位は天皇から任命されます。上洛すれば儀式そのほか天皇に対する将軍の振る舞いに、実は天皇の権威が将軍より上であることが衆目を集めることになります。これは幕府にとって面白いことではありません。天皇は敬して遠ざけるばかりでなく、封じ込めたわけです。
ところが幕末の動乱によって将軍が上洛し天皇に対面することになりました。当然、天皇が上位者でその権威を見せつけるセレモニーがありました。
文久3年3月(1863年)家茂は孝明天皇の賀茂社行幸に供奉させられます。天下の人々に征夷大将軍と言えども天皇の臣下であることを見せつけたわけです。この時、長州の高杉晋作は家茂将軍に向かって
「いよ~っ!征夷大将軍!」
と声をかけ、おちょくったそうです。
なおも翌月4月には孝明天皇は石清水八幡宮へ行幸します。そこへも家茂将軍を供奉し、攘夷を約束させ、節刀を授ける予定でした。しかし、それは将軍・幕府権威を傷つけるもので、そりゃ、あんまりだ。ということで家茂将軍は急病で(もちろん仮病だよ)欠席します。
そんな歴史のある石清水八幡宮へ行ってきました。
まず下院の鳥居、そして頓宮
この石清水八幡宮(男山八幡宮ともいう)は男山の麓にも社がありますが山上の社が本宮です。徒然草にはせっかく八幡宮へ行ったのにその麓が本宮と思い、山上を参拝しなかった人の話が載っています。
以下徒然草より
仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。
0 件のコメント:
コメントを投稿