2019年5月25日土曜日

猿が苦悩 その5 大勧進能 

20130902

 私の友人は大の歌舞伎ファンである。よく京都の角座、東京の歌舞伎座まで出かけて行って鑑賞している。私も度々誘われるのだが一度も行ったことがない。歴史好きの私は芸能史も好きで古典芸能の本も読んだりするが、お金を出してみることはまずない。古典書に入るそれらの原本(台本類)を読むか、DVDの鑑賞のみである。
 
 今は視聴覚機器の発達により、動画などで何でも鑑賞できる世の中である。そんな現代にあってお芝居の醍醐味を味わうにはやはり直接舞台を見なければいけないと思う。中世の能楽や江戸時代の歌舞伎に熱狂した人を知るにつけそう思う。昔の人々の能楽や歌舞伎の鑑賞は舞台を直接見ること以外なかったのだから、少しでも中世人、江戸時代人の熱狂を味わいたいなら当然であろう。
 
 映画やDVDなどない時代、バーチャルな体験ができるのは劇場・舞台であった。そこは時空を超えた異界であった。見る人は、演じられるその時代その場所に瞬時に飛び去り、そこに引き込まれていったのである。まるでタイムマシンによってワープした世界に連れ去られるような不思議な感覚は中世人ほど顕著である。舞台で繰り広げられるものはタダのフリ、まねをする演技ではないのである。それは時空を超えたホンマのことだったのである。
 
 このように考えると筋をもって演じるある種の劇は中世において神事の奉納舞などに起源を持つことがわかる。時空を飛び越えて実体験するなどという不思議なことは、その場に神が降りてきて、そうさしているのだ。と考えたのである。神と結びついたから演劇が真実であり人々を熱狂させるのだ、とそう思ったに違いない。
 
 だからそれら初期の演劇者である芸達者は神がかりする人でもある。しかしそうであるからといってその神がかりする人が普段から敬われたり大切にされていたわけではない。彼らは僧侶や神官のような聖職者ではなく、あくまで神と人との媒介者・メディアであり、そのための手段・道具にすぎなかった。そのため身分的には憑依する媒体者である尸童(よりまし)、巫覡、(巫・フは女みこ、覡・ゲキは男みこ)などの人々と同じで下下のゲゲ~~~ッであったのである。たとえ神技に達した演能者であってもそのようなもの(身分が低い)であり、下層民の怪しげ~~な奴と思われていた。
 
 もともと神事の神楽の要素の強かった演目はやがて洗練され、しっかりした筋を持った舞踊劇に進化していく。鎌倉時代になると『田楽』、『猿楽』として登場してくる。これらは能や歌舞伎のルーツといってもいいだろう。前のブログでも書いたように鎌倉時代に田楽は大流行する。そしてその中からより筋のはっきりした演劇の要素が強いものが猿楽と言われるようになる。これも次第に人々が熱狂するものとなる。
初期の猿楽
 神霊が降りてくるくらい素晴らしい田楽や猿楽ならば、魔物にも魅入られても当たり前である。源氏物語で若き源氏が雅楽の舞踏を素晴らしく演じきったとき、源氏をひそかに憎む弘徽殿の大后は『まあ、素晴らしい。素晴らしすぎて魔物にも魅入られそうですこと』などと不吉なイヤミをいうが、素晴らしい芸能は魔も魅入るものであると信じられていた。
 
 それではその魔に魅入られた田楽能のお話しをいたしましょう。
 
 時は貞和5年(1349年)、鎌倉幕府滅亡からまだ15年ほどしかたっていない。京都に幕府を開いた足利尊氏は征夷大将軍として日本の最高権力者に君臨している。貞和5年といえばまだ足利尊氏初代将軍の頃であり、京都の足利幕府に対し吉野にはそれに対抗する南朝があって幕府の基盤はまだまだ確立していなかった。
 
 京は幕府が何とか平安を保っていたが、全国あちらこちらで騒乱が絶えず、世上は不安であった。そんな中にあっても鎌倉末からの田楽の流行は衰えを知らず、ますます人々はもてはやすようになっていった。田楽の演者の美童や美少年が可愛がられ(もちろん衆道・同性愛ですよ)、衣装も派手になり、我も我もと競って田楽のスポンサーになりその妙技に熱中した。
 
 あの北条高時・相模入道が田楽に熱中しその中で不可思議な予告を受け鎌倉幕府が滅亡してからまだ十数年、その記憶は薄れるものではなかった。そのため、田楽に熱中するのは前代の悪例もあり、不吉でよくないことだ、などと言うものもいた。が、田楽愛好の熱狂は燃え上がりこそすれ、下火になるものではなかった。
 
 そのころ京の四条河原に渡されている鴨川の橋は壊れていて新しく作る必要があった。今だと国家や自治体が架橋するのであろうけれども、中世はそうではなかった。勧進聖(勧進・寄付を集める僧侶)が音頭をとり、資金資材、人材、人夫を集め、架橋するのである。
 
 架橋の為に必要な多くの財を集めるのに勧進能(田楽)を開催することをこの勧進聖は思いついた。いまもてはやされ、大流行している田楽能であるから、多くの人がそれを見物に集まってくる。当然、勧進(入場料という概念はなく、あくまでも各人の喜捨・寄付行為である)によって資金はたっぷり集まるだろう。田楽をもてはやすことは不吉だという人もいるが、な~に、目的が架橋のため、いいことをするんだから、不吉さも帳消しになるに違いない。とこの勧進聖は思ったんでしょうか。京や周辺の多くの田楽座を集め、それぞれに得意の妙技を演じさせる芸能競べともいえる大勧進能を開いて大勢の人々を集めようと計画した。
 
 そしてその大勧進能を6月11日、四条河原に桟敷を打って催されることになった。この日は朝から、ポンポンスコトントン、ピ~~ヒャラ、ピピッピ、と人々の心を早くも浮き立たせるようなお囃子が聞こえてきていた。
 
 いよいよ大勧進能の始まり始まり・・・次回につづく

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