徳島市に住んでる皆さんはこの眉山山頂からの眺めよくご存知ですよね。どうです、皆さんの家は見えますか?え?もう少し左のほう。でもまあ、そんな細かいことはどうでもいいんです。
次に大昔の眉山山頂から見た鳥瞰図も見てもらいましょう。
どうです?
下界はみんな一面広がる海、海、海、城山に当たるあたりには小島が見えますね。
大昔(縄文時代以前)はこの西のほうずっとずっとワイのすんどる鴨島あたりも(ここでも標高10mたらずだ)海、もしかするとこの辺りが波打ち際で海岸線があったかも知れない。
どうです。
「みんな、みんな、我が家のあたりは海の底!』
こんな大昔、海の底だった平野を確か・・・『沖積平野』といったような記憶がある。
その時代(海がずっと進入してた時代)に平野だった土地は、当然今は台地か微高地になっているはずだ。そんな時代の平野を『洪積平野』といったと思う。
上の写真を見てもらったらわかるが、この徳島平野は沖積平野ばかりで、洪積平野の面積がほとんどない。見てわかるとおり、大昔の鳥瞰図は山か海ばかりで平野が少ない。
さて本題の大阪である。まず大昔の地図を見てもらおう。もちろん想像図だが、今とずいぶん違うのがわかる。大阪の道頓堀、御堂筋なんかは海の底、また、東のほうは広い遊水池のような湖が広がっている。そして外海としきるように舌状の土地が北に向かっている。
このように大阪はほとんど海の底であるが難波宮(古代の帝都)あたりは北に長い岬のようになって陸地が伸びている。これが当時の洪積平野であろう。今は台地か微高地になっているはずだ。
この岬のはずれ辺りはこんな感じではなかったかと想像する。
その洪積平野だった難波宮跡まで当時は海の底だったあたりから歩いてみた。地図で示すとこの矢印を歩いた。
大阪は平坦地ばかりと思っていたが歩いてわかったが昔の岬に当たるあたりは茶色の線で示している。それが『上本町台地』だ。だから矢印に沿って歩くと登り坂になっている。
台地の頂上付近が難波宮跡、そしてそれに隣接した北側が大阪城だ。動画でご覧ください。
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