2019年5月18日土曜日

高良斎

20121015

  長崎の出島に居住しているオランダ人の中で一番有名な人をあげよといわれればまず、この人があげられるに違いない。出島220年の歴史の中でも知名度もダントツ、日本人にもっとも慕われていた人でもある。  その名はシーボルトである。
 彼は出島の医者としてだけではなく、蘭学の医学を志す日本の若者を教えた。また、当時の欧州で最新の医療技術で日本の庶民を直接治療した。
 難病といわれた病気を治癒したり、難しいとされていた手術などを行い(特に眼科手術で日本人を驚嘆させた)たくさんの日本人の命を救ったといわれている。
 
 当時最新とはいえ無菌手術法もエーテル麻酔も確立していない19世紀初期の医療技術でどれだけ本当に命を救ったのか疑問はあるが、漢方しか知らなかった日本人にとっては西洋近代医療は神のごとくすばらしい医療であったと見えたのかもしれない。
 
 そのようにして多くの弟子には慕われるわ、庶民の治療も積極的に行い長崎の町民からも尊敬されるわ、で、シーボルトはオランダ人としては破格の扱いを受けるようになる。
 
 すなわちほとんど出島から出られぬオランダ人の例外としてシーボルトは、街中に治療に出向くこと、薬草採取と称し(本当は博物学の研究のため)長崎郊外、山野を散策することが許可される。
 また日本人医学生のため長崎郊外に別荘つき塾を開くことまで許される。
 
 この塾生の中で一番弟子は、高良斎であるとシーボルトは書き残している。今、シーボルト著の『江戸参府紀行』を読んでいるがその中に彼の名前が出てくる。この高良斎はわが郷土阿波徳島の人である。若いうちから西洋医学の勉強するため長崎に遊学したのである。そこでシーボルトと知り合い師事したのであろう。
 
 下の2枚の写真は鳴滝塾の写真と説明版である。
 
 そして今日、徳島寺町の本覚寺のそのシーボルトの高弟「高良斎」のお墓を見学に行ってきました。
 下はお墓とその碑文です。 
  
 シーボルトは後に国禁のものを国外に持ち出そうとしていわゆるシーボルト事件を起こし国外永久追放になります。そのとばっちりで高良斎も長崎所払いという刑(まあ当時としては微罪だ)を受けます。後、医者として開業し、訳書の医学書を表したりしますが、40歳を少し越えたくらいで亡くなっています。
 シーボルトとかかわった人の中には投獄され獄死した人もいますから、その人に比べればまだ幸せだったかも知れませんね。
 
 今、シーボルトの『江戸参府紀行』を読んでいます。そこでわが郷土の蘭学医に注目しました。読み進みほかにも面白い話があればまた紹介いたします。
 
 ところでシーボルトはオランダ人ではありません。ドイツ人です(もちろん国籍も)、彼は日本を研究したくて、オランダ東インド会社に就職したのです。
 
 

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