2019年5月24日金曜日

江戸時代の大事件 その3

20130817

 外交官殺人事件に対する日本側の対応を話す前に次の二点はどうしても話しておかなければならない。現代の事件ならいざ知らず250年前の江戸時代であるからその説明を省いては事件を理解できないからである。
 
 まず外交の管轄権の問題である。
 外交権は幕府が握っている。(だから通信使の国書奉呈は幕府に対し江戸で行う) そう考えるのは誤りではないが、江戸時代、実務の上ではちょっと違う。朝鮮国に対する外交の実務について幕府は対馬藩に委任しているのである。まあいわば地方政府(対馬の)が外務省になったようなものである。
 
 対馬藩は地図で見ると日本の中では朝鮮に一番近い島である。倭寇時代から朝鮮との交易は盛んであり、また中世の守護大名からの系譜をひく宗氏によって朝鮮政府との折衝(公的な通商許可や人物・文物の交流)も行われてきた。これは対馬・宗氏の判断と責任で一国(対馬国)のみで行われてきた。
 
 ただし朝鮮との折衝では一地方の豪族だけの名目では相手にならないので、自分で勝手に日本国の代表を僭称することもしばしばあった。江戸幕府が成立して対馬・宗氏は知行を安堵されるとともに対馬の朝鮮に対する権益も認めた。その上対馬藩は幕府の初期に豊臣政権での朝鮮の役による国交断絶を修復し、朝鮮通信使派遣による国交樹立に力をつくした。そのため幕府は朝鮮に対する外交権を対馬藩にほとんど丸投げした。
 
 そのため日本に通信使を招くにあたっての道中のいろいろな事柄、国内における雑用などの折衝、すべて対馬藩が行った。対馬藩が外交のホスト役なのである。(対馬藩の手に余る大規模な儀式の饗応などは幕府が命じて他の藩に(中小藩)にやらせることはあった) だから対馬藩の藩主、藩士などは道中行き帰りばかりか儀式の際大イベントの江戸城中の国書奉呈などすべて通信使にぴったり寄り添い世話・事務的なことをしたのである。
 
 もし道中で通信使が何かトラブルを起こしたり、巻き込まれたりした場合はよほどの大事でない限り、対馬藩が一義的に責任を持って対処したのである。
 
 第二は殺人事件の罪と罰である。
 江戸時代の殺人事件の刑罰は明快である。まず罪の確定であるが、現在は証拠主義に基づき自白はたとえなくても(そのため黙秘も許される)証拠だけで有罪にできる。しかし、江戸時代は有罪は自白によって確定せねばならなかった。現在は疑わしきは罰せずで、証拠不十分で無罪となるが、江戸では疑わしきは拷問によって自白が引き出され、大体有罪となった。ま、疑わしきは罰する。ですわなぁ。そのため拷問も許された。当然、冤罪も起きる可能性があった。
 
 殺人に関する罰は応報主義で、人を殺せば死刑である。それは過失致死の場合でも同じである。(過失であっても命は命で償わせるというわけです)故殺、強盗殺人も同じ死刑であるから、ちょっと重いんじゃないかと思われるが、ちゃんと死刑に軽重をつけている。
 
 一番軽い過失致死は『下手人』で公開ではない牢内で非公開で斬首。財産は没収とはならない。これが故殺、強盗殺人となると『死罪』、さらに重いのは『獄門』。死罪は公開で斬首、遺骸は試し切りとなる。財産は没収、遺族は追放。獄門はその上にさらに獄門台で首を罪状書とともに晒される。
 
 どうせ死刑ならどれも同じ気がするが、家族・親族の絆の強い江戸時代にあって残された家族がどうなるか(財産没収や追放)、不名誉な獄門晒しになるかどうかは死刑となるものにとって切実なことであり、刑罰の軽重の重要な要素となったのである。
 
 その上に武士はさらに『切腹』というのがあった。これは名誉的な罰である。武士の場合でも大罪(大逆、反逆罪)の場合は死罪、獄門もあった。
 
 そのことを踏まえたうえでこの外交官殺人事件、どうなっていくか次のブログに進もう。 
 
 

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