2019年5月22日水曜日

 旅日記その4 江戸期の大坂は商業最先端の町だ!

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 大坂は江戸時代『天下の台所』と呼ばれ日本の商業の中心地で、その規模は江戸をしのぐといわれていたのは誰でもご存知ですよね。でも、そんなのは日本の狭い国内だけの話で、ましてや鎖国の時代、世界史的に見ればたいしたことはないだろうと思っていますよね。ワイもそうでした。17~18世紀は、じぇったいオランダのアムステルダム、アントワープ、英国のロンドンなどが商業規模あるいはそのシステムの近代化の上でも『上じゃわ』と思っていたのです。
 
 しかし、これを見てください。大坂梅田駅で降りて、テクテク御堂筋を南下しますとすぐ渡る川がこれです。
 この橋を渡ったあたりは大坂の政治の中心地で左に見えているのが大阪市庁舎です。ここを渡らずに川沿いの道を右に曲がって少し行くとある石碑があります。
 江戸時代にあった堂島米相場の石碑です。
 
 「なんだ、米市場か、それがどないしたんねん」
 
 といわれそうですね。しかしそれが世界史的にどれほどすごいことかその石碑をちょっと読んでみましょう。
 世界に先駆けての『先物取引発祥の地』なのです。今、最も高度な経済数学を駆使し、最先端の商業システムと思われている先物取引市場の制度を作り上げた最初が我が日本の大坂だったのです。これはじゅうぶん誇っていいことと思われます。
 
 ワイら日本人はシャイで奥ゆかしい民族なので暗愚路サクソンや朝鮮半島人のように「ワイが先に見つけたんじゃ!どうじゃ、恐れ入ったか」などと大げさに吹聴しませんがこのことはみんなに知ってほしいことですね。
 
 アメリカ人もこのことは認めているようで、確認はしませんでしたが確か・・シカゴ先物取引所に世界初は日本の江戸時代の大坂だ、というプレートが掲げられているとか(たぶん小さな文字で)。
 
 江戸期、客観的に大坂の商業の賑わいを見るのは日本人でなく外国人がいいんだけど、あいにく鎖国の時代であまり大坂の賑わいを見た人はいません。それでもシーボルトはじめオランダ商館の江戸参府随行員は大坂は巨大な商業都市であることを書いています。
 
 また、異常なくらい優越感を持つ朝鮮通信使節の朝鮮人は、日本の政治文化から日本人の身体能力まですべて自分たちが上だと書いていますが、こと商業や大都市の規模、町の賑わいに関しては、残念ながらワイらより何百倍、何千倍も上だと書いています。
 
 19世紀直前、英国で産業革命が始まるまでは世界史的に見て規模はともかく商業システムや経済活動は世界一流と見ていいのではないでしょうか。このことを思うとき、なぜ19世紀後半、アジアでは唯一、日本が近代国家に生まれ変わったのかわかると思うのですが。
 
 最後に江戸期の地図から大坂堂島米相場の位置を確認しましょう。

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