2019年5月18日土曜日

月と御嶽

20120901

 昨日の月は、天体観測上の『満月』、そして今日は旧暦の15日、いわゆる十五夜月である。今日の夜空も初秋の丸い月が上がっていた。
 
 今夜8時ごろ国道192号線蔵本交番の上にかかる月
 
 ところで今日は運動も兼ねて、というのも訓練所通いは列車、バス、歩くことは少ない。そして校内では運動の時間がないので運動不足になっているのである。
 そのため、ちょっとだけ山登りをしようと眉山中腹(いや正確にはすそ野あたりかな)にある御嶽さん(御嶽神社)に参詣してきた。
 
 薬師さんと滝の焼き餅本舗の間の石段を上る
 
 上にはお不動さんがある。ここは眉山山麓の滝(清滝か)があるからたぶん滝不動だろう。
 
 横には小さな滝が落ちている
 
 そこをさらに上に上ると御嶽さんの鳥居があり、長い石段を上ると神社に行きつく。
 
 今日のブログのお題は「月と御嶽」である。私はこれで連想するのは源氏物語第四帖『夕顔』である。
 
 源氏物語は平安朝の貴族の物語であるから、貴族の話しばかりかと思われるだろう。確かにほとんどは当時の上流階級である人々の話しだが、庶民の暮らしを偲ばせる話も稀に登場する。それがこの『夕顔』の巻である。
 
 光源氏は庶民の家の真ん中にあった夕顔の家で一夜を明かす。粗末な板屋である。このようなところで休むことは皇子である源氏には初めての体験である。
 こんな庶民の家の一種ではなかったろうか
 
 本文を読んでみよう
 
 『葉月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、のこりなく漏り来て見ならいたまはぬ……』
 
 仲秋の満月は屋根などうまく葺けていないあばら家にも万遍なく光を差し入れてくる。
 
 この後、となりの庶民の話し声、生活音などが聞こえてくる。そして御嶽精進をする老人の
 
 「南無当来導師」
 
 という祈りの声が聞こえてくる。この『当来』とは現在の意味では『未来』である。これは未来仏である弥勒菩薩への祈りである。御嶽すなわち金峯山(きんぷせん)の祭神蔵王権現は弥勒菩薩の化身と信じられていたのでこのような祈りの言葉となるのである。
 
 源氏物語で庶民の生活が直接わかるのはこの巻のこのあたりのみである。
 今日、御嶽へ参り、今夜月を眺め、この巻を思い出しているが、平安朝の取るに足らぬ庶民にもあまねく降臨するものは月の光と御嶽の神(本地は弥勒仏)である。一千年まえの物語であるが、何か平等性を感じるその二つである。
 
 現在、貧にせせられ、くたばりかけの私にも月の光は時を越え、貧富の分け隔てなく美しい光を降り注いでくれる。
 月を仰ぎ見ながら56億7千万年後に現れる未来仏をこころにおもい平安朝の名もなき爺のように
 
 『なもとうらいどうし』
 
 と三遍となえる、あの世からのお迎えが近いやまさんでした。
 

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