2019年5月24日金曜日

江戸時代の大事件 その4

20130818

 今までに説明したように朝鮮通信使のホスト役兼外務担当責任は対馬藩です。国内における彼らの行動にはすべて付き従っています。7日未明に起きた殺人事件の通報はただちに対馬藩へなされます。
 
 最初の一報は直接には接待に付き添っている日本側の役人「御馳走方」から藩にもたらされます。しかしこの時点では日本人の御馳走方は予断を持たずに『急病』(外傷による)と藩側に連絡します。この時点では崔天宋はまだ生きていた。
 
 しかし未明に絶命すると朝鮮通信使の上官三名の連名で事件の声明文を対馬藩に提出します。その要点は三点。
 
●崔天宋は殺害されたものであること
●彼には殺害されるような恨みをかう覚えのないこと
●現場に残された凶器は「魚永」という名が刻まれた日本製であること
 
 対馬藩は藩の手に余る大事件に発展する可能性があると見てその声明文の写しと訳文を添えて大坂町奉行(幕府)に事件を伝達する。対馬藩はこの時点で殺人事件としてではなく横死(尋常ではない死)として扱っている。
 
 前例のない外交官殺人事件(まだこの時点で対馬藩は横死としている)で藩のみでは手におえず、幕府の大坂出先である大坂城代・町奉行の支持を仰ごうという対馬藩側の意向であるが、城代・奉行所は消極的である。検視もこちらでは行わず、そちら(対馬)側で行えというし、捜査もそちらの責任で行え、解決できない場合はこちらに問い合わせをせよ、という態度である。報告だけは行えというのである。
 
 大坂ので起きた事件とはいえ幕府の出先である奉行や城代は本来は管轄外である外交事件に巻き込まれたくないというのが本音であろう。その態度が出たのであろう。そして12日には、通信使の出発は予定の日には遅れないように取り計らうべきだと対馬藩に通達している。幕府大坂の出先は全く事なかれ主義である。
 
 おそらく朝鮮から通報を受けてこのように対馬側が幕府方奉行所や大坂城代に連絡したり、指示待ちしたりで、捜査の初動が遅れたのであろう。朝鮮側が憤慨するはずである。朝鮮側はそんな日本の事情は分からない。説明しても理解するのは難しいだろう。
 
 なぜなら朝鮮王国は国王の元、中央集権国家、命令指揮系統ははっきりしている。しかし日本は幕藩体制、国内には300もの藩があり、それぞれ別の行政。司法、警察権力を持っている。外交でさえ対馬藩に委任しているのである。管轄が輻輳していれば「それはそっちの管轄だ、ウチは違う!」と、お互い責任の回避ということも起こりかねない。最終的には幕府が優先するにしても江戸期の日本とはそのようなところである。
 
 グズグズ手間取り朝鮮側を憤慨させたあげく、ようやく対馬の検視が到着するのはやっと夜に入ってから(絶命は未明)、しかし検視報告は殺人と断定しない。検視を行った結果、傷口、残された凶器から二つの可能性の報告がなされる。殺人と自殺である。対馬の検視役人の中には残された凶器の銘から日本人犯人説を指摘する者もいたが、対馬藩ではその報告を受けて「自殺かあるいは朝鮮人同士の争いではないか」という判断をしばらくの間採る。
 
 自殺かあるいは朝鮮人同士の争い、として決着するならこれは外交問題にはならない。朝鮮側内内の問題だからである。対馬藩はそうあって欲しいとの希望から強引に判断したのであろうか?
 心の内ではそのような希望があったかもしれないが強引に判断したわけではない。実は今回の通信使の旅行中、たびたび朝鮮人同士の喧嘩で流血騒ぎもあり対馬側を辟易させているし、また朝鮮人の自殺未遂騒ぎも起きている。そんな小事件もあり、今回もまた、と判断したのだろう。
 
 しかしそんな対馬側の対応では通信使側は納得できない。強硬に対馬側や、それを飛び越えて幕府側に申し入れる。「犯人が見つかり全貌が明らかとなり、犯人の処罰を見るまではこの地を動かない」と
 
 対馬側の予断、幕府の出先(大坂城代・奉行)の消極的態度により事件が膠着状態になるのではないかと懸念され始めた頃、(事件から5日ったったころ)、対馬藩の通詞(通訳)の鈴木伝蔵が今回の通信使の通詞の役目を捨て出奔したという噂が流れ始める。これはかなり怪しい。
 
 そして4月13日に決定的になるある手紙がもたらされる。出奔した鈴木伝蔵が同役にあてたものであり、その中には、『自分は崔天宋を討ち果たした』としたためてあった。そして今後の行先についても書いてあった。藩は急ぎ鈴木伝蔵の捕縛を命じ、幕府方町奉行所・城代に報告する。
 
 広域の捜査網を持つ大坂町奉行所も宿や寺を捜査しはじめる。立ち回り先である京都、有馬温泉などを探索する。
 
 日本人による朝鮮外交官の殺人が明らかになり、幕府方も消極的態度を捨てる。江戸からは特任されて吟味(犯罪調査、裁判)目付も派遣されてくる。大きな外交問題となるからである。
 
 そして4月19日、探索の結果、鈴木伝蔵は摂津河辺郡小浜で捕縛された。事件の性質上、すでに対馬藩の手を離れ、幕府の責任で処理がなされることが朝鮮側にも明らかにされ、まず犯人逮捕の報告がなされ、その後の事件処理の経過報告も適宜行うようになった。日本人が犯人であることが判明したからか、朝鮮側に不満が増大しないように丁寧で誠実な態度をみせる。
 
 さあ、いったい伝蔵の動機は、そして処罰は、それで朝鮮側は納得し外交上の決着はつくのか、次回ブログへ
 
 つづく

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