ハンペンゴロウさんの続きブログをすぐに書きたかったんですけど、この人のこと調べれば調べるほど面白くなって、図書館で何冊か借りた史料にはまってしまい。読み耽っていてブログ更新どころではなかったです。
しかし前のブログで疑問を投げかけておいて長らくそのままにするのもどうかと思い続編その2をアップしました。
まず、ハンペンゴロウという名前ですがその名そのものの個人は存在しません。ただ、後の推測ですが、その人に該当する人はいます。「ベニョフスキー」という人です。○○スキー、という名前からロシア人ではないかと思われましょうがロシア人ではありません。ハンガリーの貴族です。何でそんな人が・・・という疑問は後にして、次にどこから来たのかということについて述べましょう。
出発地はカムチャッカの港、行く先は、たぶんどこでもよかったんじゃないかと推察するのですが、一応、彼はマカオとか言っています。地図の位置関係を見ますと・・・
途中に我が阿波・日和佐がありますね。彼は何か意図して我が阿波に着いたんでしょうか?
その前に出発地カムチャッカから目的地マカオまでの地理・地勢をちょっとおさらいしておきましょう。
この東北から南西にかけて緯度にして40度以上も長々伸びる日本列島も含む島々は「ある形」に例えられます。そのあるものを見てください。これです
幼稚園のとき折り紙の細長い短冊を輪っかにして花鎖を作りましたね。あれです。われらが住むこの極東は北から南までまるでその「花鎖」のようにつながっているのです。
傾けると
どうです。幼稚園のお飾りの花鎖になりましたね。だからこれらの諸島、日本列島も含め『花綵列島』(かさいれっとう)と呼ばれています。
この時代は18世紀、まだ蒸気船なんかありません。風力を利用した帆船か人力でこぐ舟しかありません。でも16世紀以降ヨーロッパは大洋を横断できる大型帆船(マストが3本以上で三角帆を有し、逆風にも遡上できる船)をつくり、大西洋、太平洋を横断して外洋航海に乗り出していました。
しかしハンペンゴロウはんが乗ってカムチャッカの港を出た船はこんな大きな帆船ではなかったのです。2本マストのせいぜい内海や沿岸、外洋部でも近距離用の船だったのです。
だからマカオまで外洋に乗り出し直通というわけには行きません。その上に船がどうもボロッチかったようです。そんなわけで上記の地図の花綱諸島に沿って沿岸に近いところを航行するのが安全上からも一番よかったのです。
このあたりを航行するのにはもうひとつ気象上の注意が必要です。この長々伸びる群島の北半分、カムチャッカから千島諸島にかけては秋から冬、春先にかけて猛烈に発達する低気圧の通り道になります。だからこの時期航海は不可とは言わないまでも危険な航海になります。そんなことも知っていたんでしょうか、一番よい季節5月(太陽暦・ユリウス暦)に船出をします。
以上のように見てみますと我が阿波の日和佐沖は通り道になります。そして陰暦6月8日(太陽暦7月)にこのあたりを通りかかります。
花綵列島に沿って南下してマカオまで行くんですけど、なにせ船は大きくない、それにボロ。乗組員は100人近く乗っている。(中には女性もいたことが記録に残っている)航海を重ねると、風波による船の破損、浸水が起こる。そして食料(特に新鮮な野菜果物の欠乏は致命的だ)不足、蓄えた水が腐ってくる。
どうしようもなくなって薪水、食糧を求めて上陸を企てたのがこのあたりでした。
彼は船全体の指揮者です。その彼は後に『航海記』なるものを出版しています。2回目の今回はその記録をもとに話しを進めていきましょう。
当時の日本は鎖国で厳しい禁教令の時代、異人との接触は厳しく禁じられていたはずです。しかし、一方、難破などで日本に漂着する人がいました。禁令を犯し侵入するものは死罪の厳罰で臨んだはずですが、意図しない難破や漂着までそのように処置されるとは考えられません。
実際に中国、朝鮮、あるいはヨーロッパ人の船が困って薪水食料を求めたときはそれを与え、無事に立ち去らせています。また漂着した場合は中国、ヨーロッパ人の場合は長崎に送り、便船で帰国させたりしています。(朝鮮人の場合は対馬藩を通して釜山へ返す)
このハンペンゴロウの船も薪水食料を求め、あるいは破損修理のための材料を求めた場合は、上陸を許さないまでも、与えて穏便に処置したと思います。
ただし、それは海岸の地元の人が独断で出来るものではありません。当然、藩の判断許可で与えられるものでした。かなり厳格な行政上の手続き・処理があるのでした。
船で異人が現れ、もし上陸したとしても、その状況、意図を確かめず、いきなり打ち払うような非人道的な行いをすることはありませんでした。
ハンペンゴロウさんも日和佐あたりに出没し、困ったからと、助けを乞えばそれなりの対応は期待できます。
ところが、ところが・・上陸させてくれたばかりか、そこから遠くないその藩の城主のもとに招かれ、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ、とまでは言いませんが、音楽伴奏付きの歓待を受け、殿様と『通訳』(坊主か儒者のような)を通して宗教や貿易、オランダ人についでどう思うかなどということまで歓談しているのです。
もちろん帰りは船までどっさりと食料を含む贈り物を届けてくれます。(ハンペンゴロウからもまた贈り物を送ります)
その歓談の中で殿様(当然阿波藩だわなぁ)は、宗教的な意図がないならば貿易を考えてやってもよい、とか、オランダ人は金儲けができればそれでよしとする宗教も哲学も持ち合わせていない奴で尊敬はしていない、などと話しています。
え~~っ!鎖国は国法、幕府を無視して異人を歓待して、そんな言質を与えていいの?阿波藩、幕府から取り潰されますよ。と心配になりますね。
「ホンマにそんなことあったの?」
疑いたくなりますね。でも彼の航海日誌を読みましたけど確かにそう書いてあります。信用できるのかなぁ~
次回は日本側の記録を見てみましょう。それとこのはんぺん屋の五郎はん今までいったいどんな生活をしてきたんでしょうか。それが明らかにならんことにはちょっとねぇえ?????
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