2019年5月23日木曜日

蝦夷の三都 その1江差

20130508

 天下の三都といえばだれでもわかりますね。まず帝がおわす千年の都『京都』、幕府の中心にして最大の人口を擁する『江戸』、そして経済都市である天下の台所とも言われた『大坂』であります。
 それじゃあ蝦夷の三都(厳密に言えば三湊かなぁ)はわかりますか。ホンマもんの三都ほどは知られていませんね。

 わが阿波よりももっと辺境でそれこそ文化果つる蝦夷地、そんな蝦夷地に三湊があって賑わっていたとは(賑わっていなければわざわざ三湊なんて名前をつけんわな)、これは意外ですね。

 でも考えれば蝦夷は面積は九州・四国を合わせたくらい広いものですし。さらにその奥には北蝦夷(樺太だわさ)、赤蝦夷(ロシア人の居住するユーラシア)がありました。そして水産資源、鉱物資源も当時の需要から考えると無尽蔵ともいえるほどあったんですから、それをバックに三都(湊)が発展し賑わうのは当たり前でしょうね。
 さて、その三湊とは、江差、松前、箱舘です。
 今回の旅行ではその三湊をまわりましたのでそのそれぞれにブログを作成しました。よかったらご覧ください。
 江差の春は江戸にもない 
 函館からレンタカーで内陸へ入り国道227号線を一路西へ、70数キロ走ると、ドど~~ンと海岸にぶち当たります、「おおお,日本海じゃ!」
 「さすが、海の色も、波の迫力もちゃうなぁ~、それに寒い」

 ここに漁師さんのモニュメントがあります。繁次郎とかいうおっさんです。何の漁師か?今となっては忘れている人が多いですが、昔、ここらあたりはあるサカナ漁一色、わずかの漁期の間に数年分の稼ぎがあったと云われますからすごいですね。

 そしてその魚とは・・・・『鰊』(ニシン)です。
 ええ~ッ、あのニシンの昆布巻き、とかニシン蕎麦のニシン???
 そうです。若い人には信じられないでしょうね。今となっては、全くと言っていいほどここらでは獲れませんから、幻の魚といわれています。

 しかし、江戸時代から明治にかけてはタダことないくらい獲れました。鰊が来ると(群来・クキる、という)、海の色が変わったといわれます。
 あんまりドサドサ海に押し寄せるもので海面が鰊でいっぱいになり、歩いて渡れたと・・・というのは嘘ですが、ともかくそんな嘘も本当と思えるほど鰊がわんさかやってきて、網を入れると嫌になるほど獲れました。

 多量にとれた鰊は身欠きニシンにしたり、あるいは江戸後期、本土では金肥としてのニシンの締めかすの需要がありましたから、これまた多量に商品として北前船で西国へ送られました。

 網本も平の漁師も廻船問屋も金が入り、ウハウハの状態でした。平のやとわれ漁師などは網本や問屋から搾取されて儲からないと思われるかもしれませんが、じぇんじぇんそんなことはありません。

 蝦夷はアメリカ西部開拓時代と同じで男の人手が全くの不足状態です、金で釣って本土各地から男手を呼び集めねばなりません、搾取するような劣悪条件では人は集まりません。もう嫌になるほど獲れた鰊ですから網本も気前よく高賃金を払いました。

 結局、江差では、金持ちの旦那衆もプロレタリアの漁師も、街の貧民でさえニシンによって潤ったのです。

 当時のことわざにこんなのがあります。

 『江差の春(ニシンがとれる季節)は江戸にもない』

 ニシンの金によって江戸にもないくらいここ江差は大繁盛したのです。

 ニシンによって繁栄した江差の町に今も残る家があります。網本兼商店兼廻船問屋の「横山家」です。動画に撮りましたご覧ください。
 
 江差といえば民謡のふるさと、江差追分会館にも行ってきました。ほとんど心霊写真になっております。

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