鎌倉新仏教に関係している遺跡をご紹介します。まずは江ノ島駅(小田急線)で降りて海岸のほうへ歩くと、そこは片瀬浜。
一遍は鎌倉入りを果たすが幕府に鎌倉府内での宗教活動は禁止される。
そこで鎌倉に接している山や海岸で宗教活動を行うことになる。
鎌倉入府を拒否され、下は鎌倉に接する山際で夜を過ごす一遍。
下の絵巻が片瀬の浜での説法
鎌倉に関係のある祖師(新仏教の教祖)でもう一人有名な人は「日蓮」です。
一遍さんは、幕府権力に対し、まるでキリストさんのような態度をとっています。
『神のものは神に、シーザーのものはシーザーに』
つまり世俗権力とは対峙もしないし結びつくこともない、を貫いています。
しかし、日蓮さんはかなり攻撃的積極的な人で、他宗を攻撃したり、幕府の政策を批判したりします。そのため幕府の心証をかなり悪くします。結果的に身柄を拘束されたり、流罪になったりします。
その激しい内容の説法を鎌倉の真ん中、幕府の本営に近い小町の辻でやります。
下はその辻説法を行った遺跡です。
ここで、神・仏、あるいは天国・極楽について鎌倉時代の人はこんなことを言っています。
『仏や極楽があるかどうかって?わしゃ知らん。お師匠様にあると教えられ、ただただ、それを信ずるばかりである。たとえだまされ地獄に落ちようとも私は、お師匠様の言葉を信じひとえにナモアミダブツと唱えます。』
信ずること一筋、鎌倉新仏教の本質と思われます。
ちょっと脱線しますが、神仏があるかどうか、理性的にというか、博打のようにどっちにかけたら得か損か考えた人がいます。その人の出した結論によると、
『神仏が居ると賭けた場合、永遠の至福を求め得られる。これは最高最善のものである。反対に居ないと賭けた場合、幸せは限定的なもので有限である。
もし、居る方に賭けて、神仏が居たら、これ以上ない益が得られる。居なかった場合でも居ない方に賭けることと同じで、損はない。だから、居る方に賭ける方がお得ですよ。』
というものだが、どう考えます。( ※最初の言葉は、親鸞上人、後の言葉はパスカルです、ちょっと私なりに解釈したところはありますが・・・ )
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