2019年5月21日火曜日

もう一つの黄金の国

20130118

 中世から近世にかけてヨーロッパで黄金の国と呼ばれたのはわが国ジパングであることはよく知られている。大航海時代の地理上の発見はそれを探すのが動機のひとつになったことは有名な話である。
 
 今日のブログは当時に流布していた(ルネサンス期のヨーロッパ)もう一つの黄金の国伝説を紹介しようと思う。というのも実は今日の朝刊(毎日新聞の一面コラム)を見たからである。そこにはこうあった。
 
 『・・・ジパングといわれた同じころ黄金郷といわれた国があった。マリ王国である。そこでは黄金を掘り出すのは人参を掘り出すようなものだ、といわれていた・・・』
 
 コラムの導入部である。主題は黄金についてではない。今、もっともホットな話題、アルジェリアの人質事件について書いたコラムである。この人質事件の引き金になったのはマリ共和国でのイスラム勢力過激派の勢力拡大に対しフランスが軍事介入を行ったことにある。そのマリでは歴史遺産(マリ王国時代の建物遺跡)を偶像崇拝を嫌うイスラム過激派がブチ壊しているのが世界中から心配されている。(そういえばアフガンのタリバンも石仏をブチめいだ!)その文化遺産に引っ掛けての導入の話題である。
 
 だからこのマリ王国黄金郷についてはそれ以上は書いていない。いつの時代やら、どこら辺までを版図としていたのかこれを読んだだけではわからない。
 
 わいらも高校時代は一般教養として「世界史」なるものを勉強したが、今から考えると世界史なんどとはおこがましい限りである。世界史といいながら、東南アジア、中東の歴史などはほんのさわり、アフリカの歴史なんかは全く習わなかった。これは傲慢の一語に尽きる。
 
 「アフリカに歴史などないと思っているのだろうか」
 
 最近の世界史はさすがそんなことはなくなった。量は少ないがちゃんとアフリカの歴史も扱っている。そんなわけで現在の世界史の教科書を見るとマリ王国がちゃんと記載されている。
 それによると13~15世紀にかけて栄えた王国である。版図は以下の地図の茶色の部分、イスラム教を信奉したイスラム国家であり、結構な大国である。
 
 これがもう一つのジパング!黄金の国である。
 
 ・・・・・・とここまで調べて、私の記憶の底にある名前が微かに浮かんできた、確か何十年も前にそういえばこの時代このあたりの王様のあるエピソードがあったぞ・・・・・どこかで読んだ記憶がある。
 
 「え~~~と?名前は~、マンコ・ム~ス?いや違ったなぁ~、おおそうだ!マンサ・ムーサだ。間違いない。」
 
 王都はトンブクトゥー
 これがホントのマンサ・ムーサ王
 
  エピソードもはっきり思い出した。この王様、国内から採れる黄金で大金持ちだった。ある年、イスラム教国の王様の義務でもあるメッカ巡礼を思い立った。西暦1324年である。王都トンブクトゥーを壮麗な行列を仕立て、黄金もたんまり持って、鼓笛隊を先導にプカプカドンドン、ピィヒャラリ~と出発した。通る道筋にはあらかじめ美女を先導させ、王の行列の前に花びらを撒いた。金が有り余るほどあるからそれはそれは豪華な旅行列だった。
 マリからメッカまでは日本列島の端から端までより遠い。何か月もかけて旅をするが、途中、エジプトに寄ったとき、王は湯水のように金を使った。
 この黄金の椀飯振舞の結果、以後数十年にわたって中東の黄金の価値が下がったといわれている。これがヨーロッパまで伝わる黄金伝説の元となったのである。
 
 このマリ王国のニジェール川上流で砂金が多く採れたようで、王はたくさんの金を持っていた。これは奥州平泉の藤原氏が河川の砂金採集の結果持っていた黄金(砂金)と同じ状況である。この奥州平泉の藤原氏の黄金がジパング伝説の元になったといわれる。マリ王国でもこの点、よく似ている。
 
 ところでネットでこのマンサ・ムーサ王を調べていて驚いたことがあった。14世紀のアフリカの黒人王のことなんかずいぶんマイナーな歴史上の人物で知る人もあまりいまい、と思っていた。
 
 「ところが、ギッチョンチョン!」
 
 このマンサ・ムーサはネットゲーム界では有名なのである。私はそんなの知らなんだが、ゲームにシュミレーション歴史ゲーム『 シヴィライゼーション4』というのがある。そのキャラとして知る人ぞ知るのである。
 下がその歴史シュミレーションゲームのキャラ、マンサ・ムーサである。

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